南向きの暖かい一角でホトケノザが咲き始めた。しかし、よく見ると咲いている花のそばに濃い赤色の蕾のようなものがいくつも付いているのが眼につく。これはホトケノザの閉鎖花だ。閉鎖花について、岩瀬徹・大野啓一『写真で見る植物用語』によれば、
閉鎖花
花冠が発達しないか開かずに終わり、その中で受粉(同花受粉)して実を結ぶもの。
と簡単に説明されている。花が咲くことなく、一見蕾の状態でその内部で秘かに雄しべと雌しべが成熟し、そのまま受粉して果実に成長する。ホトケノザにも多いが、スミレでも一般的だ。普通スミレは春に開花する。しかし夏〜秋にかけても閉鎖花を作り、花は咲かせないが種をたくさん生産している。とくにスミレでは、春でも朝日があたらない場所に生えていると花を咲かせることなく閉鎖花のみで種を作っている。昔住んでいた西向きの公団住宅のベランダに置いていたプランターでは、スミレは全く花を着けずに毎年種だけがたくさんできていた。
この閉鎖花を見ると吉行淳之介の『娼婦の部屋・不意の出来事 』中の短篇小説「出口」を思い出す。主人公の男は半ば強制的にある部屋に閉じ込められている。見張りの男もいるが、外出は自由になっている。主人公の男はおそらく作家で、執筆のために旅館に缶詰にされているのだろう。その部屋から逃れたくて車で郊外へ行った。鰻屋を見つけたが玄関に鍵が掛かっていて入れない。裏口に回って声をかけても人の気配はするのに誰も出てこない。笊の中には鰻が動いているようだ。
牛肉屋を見つけて入りスキヤキ鍋を頼んだ。給仕の女にさっきの鰻屋のことを聞くと、美味しい鰻屋で有名だけど、入口は釘付けされていて出前専門だという。兄と妹が二人、夫婦で住んでいる、と女が小声で言う。主人が出前をしているが、おかみさんはもう20年くらい外へ出ないと。
後日見張りの男と郊外のあの鰻を食べに行った。宿屋に入って鰻の出前を頼んだ。キモスイも頼むと言うと、宿の女中が、あの店はキモスイも肝の焼いたのもつくってくれないと言う。主人公の男が想像する。
毎日、たくさんの肝が鰻屋の夫婦の口に這入ってゆく。おそらくは、生肝のまま這入ってゆく。暗い家屋の中の血塗れになった二つの唇が、彼の脳裏に浮び上ってくる。その二つの唇は、向い合い触れあい、執拗に吸い付き探り合う。
細胞は暗い血でふくらみ、漿液は緑青色に燦めく。
昔、閉鎖花という言葉と意味を知ったとき、すぐに吉行淳之介のこの短篇を思い出した。スミレは開花することなく種を作っているだけだが。

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