若者はしばしば貧しい

 山崎努が『俳優のノート』(文春文庫)で若い頃の貧しかった記憶を書いている。

 俳優座養成所の3年間は楽しかった。
 所長の杉山誠先生の演技指導は、生徒の自主性を育てるものだった。
(中略)
 授業でチェホフ『結婚申込み』の求婚者を演った時、昂奮し過ぎて本当に失神し、不様にひっくりかえってしまったことがあった。先生は微かに苦笑して、みんなあんなふうにやるように、と言われた。これが演技を褒められた最初の経験で、今でも鮮明に憶えている。その後しばらくの間、何人かの男子生徒が懸命に失神演技を試みていた。自分が失神したのは、金がなくてろくに飯も食えず、貧血ぎみだったからなのだが。皆、純朴な連中だった。クラスの半数以上が赤面症で悩んでいて、自分も重症だった。他人と目を合わせて話すことが出来ない。何でもないことを話している時に、突然顔が熱くなり、慌ててトイレに駆け込んだりした。
 同級の河内桃子さんが、廊下ですれ違った時、さり気なく手を握ってきたことがあった。やや! と立ちすくんだら、掌の中に小さく畳まれた千円札があった。恋文ではなかった。当時自分はひどい貧乏で、ぼろぼろのジーパン、破れたビニールの靴を布切れで結え付けて履き、いつも栄養失調でふらふらしていた(勿論本当に金がなかったのだが、多少貧乏を気取っているところもあった)。桃ちゃんは同情して、他人に気付かれないように小さく小さくお札を畳んで手渡してくれたのだ。
(中略)
 いつか、さり気なく(桃ちゃんのように)お礼を言おうと思っているのだが、未だにその機会がないのでここに記す。あの握手は忘れられません。桃子さんありがとうございました。ラヴレターよりずっと貴重なものを戴いたと思っています(実はこれも手遅れで、河内桃子さんは、先年、亡くなってしまわれた)。

 河内桃子についてWikipediaを見ると、山崎より4歳上の1932年生まれ、「女優としては久我美子と並ぶ名家出身で、祖父は理研グループ総帥で子爵であった大河内正敏、父は正敏の次男で画家であった大河内信敬」とある。1998年に66歳で亡くなっている。山崎がこの日記を書いている時はまだ存命だったが、単行本が出版された2000年にはすでに亡くなっていた。山崎のお礼を知ることはなかった。
 このエピソードは、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの映画監督トリュフォーゴダールが決別し、和解の日を迎えることなく亡くなったトリュフォーへのゴダールの歎きと、同じくフランスの哲学者メルロー=ポンティとサルトルの決別、そして和解することなく亡くなったメルロー=ポンティへのサルトルの悔恨を思い出す。ゴダールは「ほとんどセンチメンタルに「フランソワ……」とよびつづけてきた」し、サルトルも「……形もなさず、解消もせず、これからまさに生まれ変わるかそれとも破れるかというときに消滅したこの長い友情は、私のうちに、夢幻にうずく傷となっていると言う以外に、結尾として語るべき何事もないのである」と『シチュアシオンIV』に書いている。二人の思いも山崎の気持ちも直接には相手に伝わることはなかった。
 だが、それでもいいのだと思う。相手を思う気持ちはあるのだから。その気持ちが存在したこと、そのことが少なからぬ意味を持っていたと思う。直接伝わることはなかったかもしれないが、その気持ちが存在したことは厳然として在ったことなのだから。
 さて、山崎努の貧しさである。若い時の貧しさは生まれや育ちが大きく影響する。貧しさは価値に大きく影響する。豊かさが価値であり、貧しさは無価値だとされる。貧しい若者は己の境遇を恥じることになる。山崎努の貧しさは私のものでもあったから、そのことはよく分かる。だが、今の私はそうは考えていない。貧しさとは一つの状況であり、根本的には価値ニュートラルなのだと。貧しいと不如意なことが多くしばしば辛い経験をするだろう。しかしそのことは価値とは直接には無関係なのだ。貧しさを現実としてそれから逃げることなく自分のこととして引き受けることが大切なのだ。
 山崎の日記で授業でチェホフの『結婚申込み』を演ったとある。この芝居は「ひと幕の喜劇」と題されている短いものだが、木冬社の清水邦夫が芝居が書けないというスランプのときに本棚から引っ張り出す「わがバイブル」3篇の一つだと言っている。他の2篇はチェホフの『熊』と『白鳥の歌』ということだ。それについて清水が書いている。

これをくりかえし読んでいるとやがて気持ちが落ちつき、戯曲を書くことの恐怖がうすらいでいく。そして十回くらい読み返すと、うそのように戯曲を書きたいという欲望が生まれてくる。まさにスランプの特効薬である。
(中略)
「結婚申しこみ」。作品的にはいろいろいうことが出来ようが、ぼくなどはこれを読みかえすたびに"心ならずも悲劇に"とか"心ならずも喜劇に" とかいう人間の闘争的関係をしたたか思い知らされるのだ。「愛してるからすべて許せる」という言葉があるが、「愛しているけど許せない一点がある」というのも事実である。ぼくは読むたびに笑いころげてしまうが、ふとこの作品と同じことが一週間前に実際おこったことを想起してしまう。それくらいひんぱんにおきる人間ドラマなのである。このパターンも何度模倣しても見抜かれない。誰もが、自分のことと思ってしまうのだ。

 以上紹介したブログの記事を下に列記する。
劇作家 清水邦夫の秘密(2007年3月20日
 ゴダールサルトルのエピソードはこちらに、
山田宏一『トリュフォーの手紙』を読む(2013年3月6日)