山崎努『俳優のノート』を読んで

 山崎努『俳優のノート』(文春文庫)を読む。一昨日、劇作家と演出家の対談を読んだ感想をアップしたが、次いで読んだのが俳優の書いたものだった。今まで劇作家や演出家に興味をもって芝居を見、関連する本を読んできたが、俳優に関するものを読んだのは初めてだった。あまり俳優のことを考えてこなかった。好きな俳優はいる。さとうこうじとか中村美代子とか、岡田茉莉子とか、アンナ・カリーナとか、パトリシア・ゴッジとか。でも俳優のことをちゃんとは考えてこなかったのが今回分かった。
 山崎努の俳優ノートは、1998年1月、新国立劇場こけら落としの公演『リア王』のリアを演ずることになった山崎努の、準備から稽古、そして公演が始まって楽を迎えるまでの克明な日記を公開したものだ。知らなかった。俳優がこんなに悩んで苦しんで舞台に臨んでいたなんて。壮絶なと言ってもいいくらいだ。稽古が始まるまでに台詞を覚える努力が始まる。役について考える。深く考える。悩む。演出家と打ち合わせる。戯曲の翻訳者と話す。共演者と顔合わせをする。ノートの半分がこの「準備」の章に当てられる。
 稽古に入る。共演者の不満がつづられる。苛立ちが書かれる。演技に悩む。演出について提案する。共演者にキレる。リアの末の娘コーディリアに対する気持ちの揺れ、稽古の途中で亡くなった伊丹十三のこと。演出家の迷いに一緒に悩む。公演直前の混乱。
 初日を迎える。芝居とは、初日を迎えればあとは稽古の結果を続けるものと思っていた。そうではなかった。毎回芝居は異なっていた! よくできた日もあり、うまくいかなった日もある。共演者が失敗したこともある。すばらしく良くできた日もあった。楽日を迎えるまで緊張は消えない。
 最終日の日記から。

     2月3日 火曜日


 晴れ。マチネー。千秋楽。午後10時起床。女房運転、公、直同行。
(中略)
 今日は一番の出来だったと思う。(中略)
 とにかく、終った!
 今はは空っぽの状態だ。
(中略)
 余(貴美子)さんが陽気に笑い続けている。(高橋)長英、(松山)政路のほっとした顔、(渡辺)いっけいはいつものように舞台を下りると控えめで、部屋の隅でひっそりと飲んでいる。(真家)瑠美子は明日学校があるので帰った。范(文雀)さんは上機嫌で、さあそろそろ場所を替えましょう、と皆を先導、颯爽と歩き、二次会へ。酒が旨い。いっけいも楽しそうに話し始めた。千葉(哲也)君の笑い声。滝田裕介長老も、野球帽をあみだにかぶり、よかったよかった、楽しかったよ、ありがとうと子供のようだ。若者たちが(松岡)和子さんを囲んでいる。鵜山(仁)はいつになく饒舌だ。
 リアは長い旅をした。
 領地を捨て、王冠を捨て、衣服を捨て、正気を捨てて、血縁を捨て、世を捨てる旅だった。唯我独尊のリアは、その狂気の旅の中で、他者を発見し、人間の悲惨を知る。コーディリアと再会。謝罪。新しい親子関係の成立。そしてコーディリアと牢に閉じこもる。「二人きり」の世界にたどり着く。慈しみ。コーディリアの死。狂気。死ぬ。命を捨てる。
(中略)
 リアとの旅はスリリングだった。
 リアは絶えず、俺は変っていない、最後まで何も変っていない、と囁き続けているような気がした。お前は変ったのだ、と捻じ伏せた。今もまだリアの囁きは聞こえてくるようだが、しかし旅は終ったのだ。
 リアよ、さらば。

 香川照之が解説を書いている。

 あなたがもし俳優ならば、あなたはこの本を「教科書」と指定すべきである。そして神棚高く飾るべきである。さらに、その日の自分に有用なしかるべき箇所を読んでから、毎日仕事場なり舞台なりに向かうことを強くお勧めする。
 一方、あなたがもし俳優でないなら、俳優という人種がどれだけ「演じる」ことにおのれの精魂、人生、意識、肉体、信念を注ぎ込むことが可能であるのか、その最高レベルの探求をとくと堪能できたことだろう。その幸運に私から盛大なる拍手を送ろう。
 おめでとう。

 解説はこの後も充実した言葉が並ぶ。香川の解説が本当に心に沁みた。良い本を読んだ。
 『リア王』は以前、佐藤信演出、石橋蓮司主演で見たことがあった。それが強く印象に残っている。山崎努の舞台も見たかった。そしてシェークスピアの偉大なことを改めて知った。