ショーペンハウアー『読書について』を読んで

 ショーペンハウアー鈴木芳子・訳『読書について』(光文社古典新訳文庫)を読む。詩人の荒川洋治が高く評価していたから(毎日新聞 2013年8月11日)。荒川の書評より、

「本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。たえず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れ込んでくる」。読書は「自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない」。さらにいう。
「学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ」
 ショーペンハウアーのことばは明快。そのすべてが真実であるというしかないが、次のような一節も心に残る。「自分の頭で考える人はみな、根っこの部分では一致している」「立脚点にまったく違いがなければ、みな同じことを述べる」
(中略)ともかく自分の頭で考えられない人は読書などしてはならないのだ。むしろしないほうが、じかに現実に接するので、一定の知恵が保たれるというのだ。この本を読んでいくと、読書は「自分の頭で考える」ことのできる、ごく少数の人、特別な能力をそなえる人だけにゆるされるもので、そうでない人たちが少しでもかかわると、ろくでもないことになるということだ。一般読者、一般的読書の否定である。(中略)
「書く力も資格もない者が書いた冗文や、からっぽ財布を満たそうと、からっぽ脳みそがひねり出した駄作は、書籍全体の9割にのぼる」。(中略)読書の最大の要点は「悪書」を読まないこと。「いつの時代も大衆に大受けする本には」手を出さないのが肝要。

 さて、本書は3編からなっている。「自分の頭で考える」「著述と文体について」「読書について」。「著述と文体〜」では、多くの哲学者が否定される。「全人類のなかでとくに厚かましヘーゲル学派の哲学者たち」。「不可解」という「この仮面はフィヒテが導入し、シェリングが磨きをかけ、ついにヘーゲルでその絶頂をむかえた。(中略)「不可解」は「暗愚」に通じるものがある」。だが、全体の半分を占めるこの章の後半は、ほとんどドイツ語の文法に関するものだ。ドイツ語を知らない読者にとって、何か意味があるとは思えない。
 最後の「読書について」で著者の辛辣な筆がとくに冴える。

 だがこうした大衆文学の読者ほど、あわれな運命をたどる者はいない。つまり、おそろしく凡庸な脳みその持ち主がお金めあてに書き散らした最新刊を、常に読んでいなかればならないと思い込み、自分をがんじがらめにしている。この手の作家は、いつの時代もはいて捨てるほどいるというのに。その代わり、時代と国を超えた稀有な卓越した人物の作品は、その題名しか知らないのだ。

 読みおえて、特別新しいことを教わった気にはなれなかった。ある種の真実を明快に語っただけではないかとの気もする。いや、過激な読書不要論まで肯定する気にはなれないが。むしろ、長々とドイツ語の文法について語った部分の退屈だった印象が強い。
 訳文はたしかに読みやすい。しかし、さして面白かったわけではない200ページ足らずの文庫本が、税込み定価780円というのは高かったというのが最終的結論だ。