内的なモティーフが弱すぎる詩は……

 寺山修司『戦後詩』(講談社文芸文庫)に「役に立つ」ことを目的として書かれたキャンペーン用の詩が紹介されている。吉展ちゃん誘拐事件に際して、誘拐犯に呼びかけるために作られた詩だ。藤田敏雄が詩を書き、ピーナッツやボニー・ジャックスが歌ったという。

  教えておくれ いますぐに
  教えておくれ 私に
  どこにいるか 何をしているか
  あの子のうわさ 教えておくれ
  (中略)
  かえしておくれ いますぐに
  かえしておくれ いますぐに
  君も君も 人の子ならば
  あの子の生命 かえしておくれ

 寺山はこの詩に疑問を持っていたという。

それはこの詩が、私自身の「詩を役立てる心」とふれあうものがなかったからかもしれないし、また詩の機能性に対する過信から、「注文製作」的に必要なことばだけを織りこんだため、詩としての感動がうすれてしまっていたからかもしれなかった。どっちにしても、犯罪者へ「話しかける」にしては話しかける側(詩人側)の動機がきわめて曖昧な気がした。(丁度、デパートの紳士服売場で、自分のサイズにあわせて一着のズボンを注文するように、一つの社会的な事件にあわせて詩を作るというのでは、詩を書く側の内的なモティーフが弱すぎるのではないか、と思ったのである。)

 しかし犯人は、この歌に日夜ゆすられる思いで改悛したと自供したという。詩が役に立つことを照明してみせてくれた、と寺山は続けている。
 とは言うものの、「事件にあわせて詩を作るというのでは、詩を書く側の内的なモティーフが弱すぎるのではないか」という感想が間違っているとは思えない。
 美術雑誌に毎月連載されている、絵画作品に触発されて書かれているらしい詩が少しもおもしろく感じられないのは、やはり詩を書く側の内的なモティーフが弱すぎるせいではないかと思うのだ。
 40年ほど前、沖縄返還をテーマにした吉本隆明の詩に、生々しい社会問題をテーマにして、こんなにも見事に作品化できるのかと驚いたことがあった。すると、社会的な事件にあわせて詩を作っても、強い内的モティーフが可能ということなのか。あるいはやはり詩人の能力の問題なのか。