井上ひさし『少年口伝隊一九四五』を読む

 井上ひさしの朗読劇『少年口伝隊一九四五』(講談社)を読む。これは先日新国立劇場で公演を見た芝居の台本にあたる。粗筋は以前紹介したので、以下再録する。

 広島に原爆が投下される少し前から芝居が始まり、生き残った3人の小学生たち、それに中国新聞に勤める女性と老哲学者のあわせて5人が主な主人公。原爆の被害が次々に語られていく。圧倒する言葉の強さ。井上ひさしの真骨頂だ。
 輪転機が壊れてしまって新聞が発行できない中国新聞は、街角で口頭で記事を読み上げて新聞の代わりにすることにした。その口伝者に3人の小学生が選ばれる。アメリカ軍が来るから慰安所を用意することにしたという記事の意味が分からなくて、3人の小学生は老哲学者に聞きに行く。それはアメリカ軍をもてなすという意味だと言われて、小学生たちは数か月前まで徹底的に闘うはずだった相手をどうしてもてなすのかと混乱する。
 原爆投下の2か月後広島を大きな台風が襲い、山崩れが頻発して2,000人が亡くなってしまう。3人の小学生の一人がその時行方不明となり、もう一人がまもなく原爆症で亡くなる。15年後に残った少年の一人も原爆症で亡くなってしまう。
新国立劇場小劇場の『少年口伝隊一九四五』を見る(2013年8月3日)

 そこで「朗読劇なので、セリフだけで芝居が進行する。それでこれだけの感動を与えるのだから、脚本のすばらしさ、井上ひさしの優れた才能だ」と書いたが、あらためて芝居のもつ圧倒的な説得力を痛感した。脚本がすばらしいのは全くそのとおりだが、生身の俳優が目の前で演じることの意味は違っている。それを演出した栗山民也の力も大きい。できれば小劇場での3日間の公演ではなく、ロングランをこそ望むものだが、せめて録画してテレビで放映してほしい。本当に多くの人に見てもらいたい芝居だ。
 本書について、毎日新聞の書評でも「豊」氏によって紹介されていた(8月4日)。

 1945年8月6日の原爆炸裂から9月17日の枕崎台風の襲来まで、ヒロシマを正面から描いた朗読劇である。読んでいて、心のふるえをとめることができない。(中略)
 この朗読劇、1行1句が選び抜かれた叙事詩を思わせるが、その背後には、この戦禍の無惨を表現できるのかという、作者の戸惑いと怒りと絶望がある。それでも表現し、伝えなければならないという、強い意思と願いがある。傑作『父と暮せば』と対をなす、必読の作品である。

 文中、「傑作『父と暮せば』と対をなす、必読の作品である」はまったくの同感だ。まさに「必読」だと思う。井上はヒロシマを舞台にして、このほか『紙屋町さくらホテル』というこれまた傑作の芝居を書いている。あらためて井上ひさしの優れた才能に深い敬意を表する。
 さて、この「豊」氏は湯川豊だろうか。


少年口伝隊一九四五

少年口伝隊一九四五