丸谷才一『快楽としての読書 海外篇』を読む

 丸谷才一『快楽としての読書 海外篇』(ちくま文庫)を読む。同じシリーズの日本篇は先に紹介した。今回、取り上げられた書評が116篇、1964年から2001年に書かれたものから選ばれている。書評の大家が紹介しているので、また読みたい本が20冊近く増えてしまった。


・J. G. バラード『太陽の帝国』(国書刊行会
 バラードはSF作家だと思っていたら、太平洋戦争が始まったとき上海に暮らしていたイギリス人実業家の息子、11歳のジムの物語だった。ジムは両親とはぐれ、彷徨しているうちに日本軍の捕虜収容所に入れられる。大枠のところで作者の自伝に似ているらしい。イギリスの書評では、本書を大岡昇平『野火』、ゴールディング『蠅の王』、ホーバン『リドレー・ウォーカー』に匹敵すると評されたとある。


・P. D. ジェイムズ『女には向かない職業』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
 本書については丸谷の文章を抄録する。

 早川ミステリひさびさの佳品である。翻訳探偵小説の愛読者は、この、いかにも本場ものらしい長篇小説によって、長いあひだの乾きをいやされるのではなからうか。(中略)
 P. D. ジェイムズの探偵は、22歳の、まつたく素人の私立探偵である。警視庁の刑事だつた男が退職して私立探偵になる。彼は彼女を共同経営者に仕立てようと必死に訓練する。しかし、一通り仕込んだとき、癌になつて自殺し、オフィスと拳銃とを彼女に残す。そこで、若くて魅力的で勇敢で、しかし未経験なコーデリアは、女には向かない職業−−私立探偵になるわけだ。(中略)
 謎の作り方は堅牢で、小説的な興趣は極めて豊かであり、登場人物のあつかひ方は情愛にみちてゐる。とりわけすばらしいのは大団円がすんでからの嫋々たる余韻で、読者はおそらく、いかにも探偵小説らしい探偵小説を読んだといふ満足を味はふことにならう。

 ただ、この作品については、瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』(創元ライブラリ)に面白いことが書かれている。P. D. ジェイムズの長篇を賞賛して、

……『ナイチンゲールの屍衣』が雄大なスケールの傑作であり、次いで処女作の『女の顔を覆え』がすばらしい。CWA賞受賞の『黒い塔』は、非常に立派な小説だが、ミステリとしての出来はやや落ち、『ある殺意』はもう一段落ちる。しかし、いずれもつまらなくはない。
 以上の諸作に登場する名探偵が、スコットランド・ヤードのアダム・ダルグリッシュ警視。この人物、詩人である。優しい性格だが、ニヒリスティックな一面もある。しかし、あまり詳しいことはわからない。不思議なことに、あれほど描写好きな作者が、ダルグリッシュに関しては、具体的な描写を避けているからだ。

 このダルグリッシュが、『女には向かない職業』に登場する。瀬戸川からの引用を続ける。

 それまで、具体的な描写のなかったダルグリッシュの人物像が、この作品で、コーデリアの眼をとおしてはっきりと書かれたのである。できれば、一番最初に読んでほしくはない異色の名作なのです。

 できれば『女には向かない職業』は一番最初に読んでほしくはない、と言われてしまった。


エドマンド・ウィルソン『愛国の血糊 南北戦争の記録とアメリカの精神』(研究者出版)
 丸谷が絶賛している。

 エドマンド・ウィルソンは20世紀アメリカ最高の文藝評論家で、少なくとも2冊の比類のない傑作を書いた。一つはモダニズム文学論『アクセルの城』(筑摩書房)で、もう一つはこの南北戦争(1861〜65)の文学史ともいふべき『愛国の血糊』である。前者は文学好きの読者にしかすすめられないが、巧者は広い範囲の読書人に推薦したい。世界と人生を言葉の力によつて認識する喜びが約束されてゐる。
 しかし読み方にコツがある。長い序文は飛ばして、第1章「ストウ夫人」から読み出さう。言ふまでもなく彼女の『アンクル・トムの小屋』がきつかけで戦争が始まつたからだが、理由はそれだけではない。いきなりウィルソンの才腕が発揮され、彼の領域に引きずりこまれるからだ。(中略)ウィルソンは『アンクル・トムの小屋』を論評する。
 粗野でしかも無造作に書かれた物語の背後から、生命力のある登場人物たちが劇的に現れ、そして彼らは作者よりもずつと自己表現がうまい。ニュー・イングランドの聖職者の家庭で、ストウ夫人は結婚後18年間、悲惨な生活を堪へ忍んだ。その個人的な苦悩は、彼女の家庭が属する国家の苦悩と一体になつて、あの小説の世界を創造した。それは当時ディケンズがはじめたばかりの、そしてゾラが継承することになる社会的階級の探求であり、次の世紀にはE. M. フォースターが『インドへの道』でおこなふ、互ひに不愉快な関係を持つ二つの対照的な国民の研究の、さきがけをなすものであつた。有名人になつた彼女が平穏な精神状態で書いた、他の作品はみな詰らない。ストウ夫人は小説を読むことが好きでなく、彼女に影響を与へた文学形式は説教だけであつた。若者たちにもてない娘であつた彼女の小説には、オールコットの『若草物語』にある親密な人間関係の感覚が欠けてゐる。そのため、知的=社会的関心では遙かに劣る『若草物語』のほうが国民的伝説となつた、と彼は言ふ。明らかにテーヌ、サント=ブーヴの流れを汲む態度だが、情理兼ね備はつた名批評であつて、卓越した小説読みであることと第1級の知識人であることとの最上の一致がここにはある。

 うーん、「若者たちにもてない娘であつた彼女の小説には、オールコットの『若草物語』にある親密な人間関係の感覚が欠けてゐる」なんてことになるんだ!


 この他、とくに興味を惹かれた本。
ジュリアン・バーンズフロベールの鸚鵡』(白水uブックス
・ボアゴベ『鉄仮面』上・下(講談社文芸文庫
・F. M. コーンフォード『ソクラテス以前以後』(岩波文庫
・E. M. フォースター『ハワーズ・エンド』(河出書房新社
・リチャード・ヒューズ『ジャマイカの烈風』(晶文社
デイヴィッド・ロッジ『小説の技法』(白水社
吉田秀和編訳『モーツァルトの手紙』(講談社学術文庫
ウラジミール・ナボコフナボコフ自伝』(晶文社
中村喜和編訳『ロシア英雄叙事詩 ブィリーナ』(平凡社
チェーザレパヴェーゼ『美しい夏』(岩波文庫
・ルース・レンデル『ロウフィールド館の惨劇』(角川文庫)
ヨーゼフ・ロート聖なる酔っぱらいの伝説』(白水uブックス
ボリス・ヴィアン『日々の泡』(新潮文庫
ユルスナール『東方綺譚』(白水uブックス
ザミャーチン『われら』(岩波文庫


丸谷才一『快楽としての読書 日本篇』を読む(2013年4月22日)



快楽としての読書 海外篇 (ちくま文庫)

快楽としての読書 海外篇 (ちくま文庫)