井上ひさしの『私家版 日本語文法』がおもしろい

 井上ひさしの『私家版 日本語文法』(新潮文庫)がおもしろい。私家版というように、文法の定説にとらわれず、しかし説得力のある自説が展開される。
 漢字の制限に対して、漢字の造語能力を挙げてそれを擁護する。また関東から南奥羽地方にかけて無敬語地域が多いという学者たちの指摘に対して、南奥方言を話す農民たちが目上の人たちの前では、「スー」とか「シー」という摩擦音をことばの前後に付けて尊敬や畏怖の念を表しているなど、非言語的敬語表現をしているのだと説く。
 井上の文法に関する主張は教えられるところが多くおもしろいのだけれど、実は引用された例文が無茶苦茶おもしろい。その一部を紹介すると、句読点の使い方を説明する例文として、力道山がハワイから出した葉書の全文が引かれる。

 其の後御変り御座居ませんか私は御蔭様で元気で毎日練習して居ります故御安心下さい又出発の際色々と御世話に成り厚く御礼申上げます私は来る十七日インデアン人と初試合をやります毎日暑いので海につかりぱなしです。どうぞ皆々様に宜敷くお伝へ下さいお願い致します又お手紙差上げますでは元気でアロハ

 井上は句点が1個しかないと指摘し、句点も読点もないのに文意は明瞭であると言っている。
 清水の次郎長が女房にあてた手紙は句点だけだが、これで用が足りている。

ほしのさんがこさいたのが。たくさんあるが。ひとにあづけるわ。いやだから。おまゑさんが。しんたいして。くれるように。しておくれと。いわれるから。金拾五ゑんも。やるように。してくれよ。佐平でも。三保の。徳だやでも。ときがりに。□いうて。やりてもゑいから。やうてくれよ。

 文中「しんたいして」は「しんぱいして=心配して」の意とのこと。
 接続詞を用いることは、論を立てることだと井上は言い、接続詞を必要としない情感を表現する文例として、夫婦交換(スワッピング)月刊誌『スウィンガー』のメッセージ蘭から引用する。

 私39才156cm50kg色白で人から美人といわれて居ります。主人50才166cm65kg相互鑑賞タッチプレーからスタートしたいと思ひます。私しは発声愛液感度共良好です。スキン着用なら同室交換にも応じられます。とにかく初心者ですので、やさしくリードして下さる清潔な御夫婦の方、夕方より夜にかけてプレー致しませう。乱交や数組の鑑賞にもぜひ参加させて下さい。写真、TEL住所同封の上お便り下さい。返事確実に致します。

 「発声」とは喜悦声をあげることと井上が言う。
 ついで、日本人の日記には天候の記入が多いことを、文化13年(1816年)8月の俳人一茶の日記を引いて教えてくれる。

8日 晴 夕方一雨 雲龍寺葬 菊女(妻)帰 夜5交合
12日 晴 夜3交
15日 晴 夫婦月見 3交 留守中木瓜ノ挿木何者カ抜之
16日 晴 白飛(門人)ニ、十六夜セント行ニ留守 3交
17日 晴 墓詣 夜3交
18日 晴 夜3交
19日 晴 3交
20日 晴 3交 長嘯(友人)来
21日 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 4交

 井上が「交合」あるいは「交」は性交のことと注している。一茶は1763年生まれなので、この時53歳。その歳でひと晩に3〜5交なんてまさに絶倫だ。しかも14日間で9日もしている! バイアグラみたいな漢方薬でも常用していたのだろうか。
 とまあ、このような楽しい例文で高邁な文法を説いている。お勧めの1冊である。


私家版 日本語文法 (新潮文庫)

私家版 日本語文法 (新潮文庫)