ボルヘスの講義録『詩という仕事について』を読む

 ボルヘス『詩という仕事について』(岩波文庫)を読んだ。これは1967年にアメリカのハーヴァード大学で行われたボルヘスの講義録だ。ボルヘスは1899年生まれなので当時68歳。6回に渡るこの講義で創作について語っている。とくに第6回めの講義「詩人の信条」が創作の具体的なノウハウを語って興味深い。ここでは第2回めの講義「隠喩」から、暗示の効果について述べていることを紹介したい。

……われわれは今ボストンの北にいるのですから、ロバート・フロストによる恐らく知られ過ぎた詩を思い出すべきだと、私は思います。(訳注:ロバート・フロストはアメリカの詩人)


  The woods are lovery, dark, and deep,
  But I have promises to keep,
  And miles to go before I sleep,
  And miles to go before I sleep.


  「森は美しく、暗く、深い、
  しかし、私には果たすべき約束がある、
  眠りに就く前に歩くべき道のりが、
  眠りに就く前に歩くべき道のりが」


 これらの詩行は完璧そのもので、トリックなどは考えられない。しかしながら、不幸なことに、文学はすべてトリックで成り立っていて、それらのトリックは−−いずれは−−暴かれる。そして読み手たちも飽きるわけです。しかしこの場合は、いかにも慎ましいものなので、それをトリックと呼ぶのが恥ずかしいほどです(ただし、他に適当な言葉がないので、そう呼ばせてもらいます)。何しろここでフロストが試みているのは、誠に大胆なものですから。同じ詩行が一字一句の違いもなく二度、繰り返されていますが、しかし意味は異なります。最初の "And miles to go before I sleep." これは単に、物理的な意味です。道のりはニューイングランドにおける空間としてのそれで、sleep は go to sleep 「眠りに就く」を意味します。二度目の "And miles to go before I sleep" では、道のりは空間的なものだけでなく、時間的なそれでもあって、その sleep は die 「死ぬ」もしくは rest 「休息する」の意であることを、われわれは教えられるのです。詩人が多くの語を費やしてそう言ったとすれば、得られた効果は遙かに劣るものとなったでしょう。私の理解によれば、はっきりした物言いより、暗示の方が遙かにその効果が大きいのです。人間の心理にはどうやら、断定に対してはそれを否定しようとする傾きがある。エマソンの言葉を思い出してください。"Arguments convince nobody" 「論証は何ぴとをも納得させない」と言うのです。それが誰も納得させられないのは、まさに論証として提示されるからです。われわれはそれをとくと眺め、計量し、裏返しにし、逆の結論を出してしまうのです。

「人間の心理にはどうやら、断定に対してはそれを否定しようとする傾きがある」。なるほど! 
「論証は何ぴとをも納得させない」。この逆説は魅力的でしかも真実を突いている。思えば私も長くもない一生で何度もそのような体験を重ねてきたのだった。


詩という仕事について (岩波文庫)

詩という仕事について (岩波文庫)