ギャラリーαMの安藤陽子展

 東京千代田区東神田のギャラリーαMの安藤陽子展を見た。これはαMプロジェクト「絵画、それを愛と呼ぶことにしよう」の3回目で、東京国立近代美術館学芸員保坂健二朗がキュレーターとなって全9回10人の作家を取り上げる企画となっている。前回俵萌子に続いて今回も優れた作家が選ばれている。安藤陽子は1979年長野県安曇野市生まれ、2005年に愛知県立芸術大学大学院美術研究科日本画専攻を修了している。東京での個展は2010年に当時のINAXギャラリー2についでようやく2度目となる。
 作品はいずれも上半身を描いた人物像で、絹本彩色、絹地を浮かせて額装している。色彩が柔らかく、浮かせているため光が後ろに回って透明感がある。




 保坂健二朗が「安藤陽子の描く顔と、それを前にすることの意味。」というテキストを書いている。

彼らが悲しんでいるのか微笑んでいるのか。思いを寄せてくれているのか哀れんでいるのか。まだ生きているのかもう死んでしまったのか。それはわからない。どちらにも決められない。でも、戸惑う必要などない。わかることだけに立ちむかえばよい。それが顔であることを、自分のものではない以上は間違いなく他人の顔であることを認められればよい。
 ここでひとつ確認しておかなければならない。安藤は決して「肖像画」を描いているのではないのだ。肖像画とは、その名の通り、誰かの肖像を平面のイメージで表した作品のことである。そこでは、たとえ匿名的存在であったとしても、誰か別の存在の外的・内的特徴を捉えることが目的とされている。描かれている人物の個性が、ある絵画空間との緊張関係の中でよく示されていると感じ取れるとき、私たちはそれを優れた肖像画だと感じる。
 安藤の絵は、こうした意味での肖像画とはおよそ目的が(あるいは機能が)異なる。彼女はただ、私たちが本当はよく知っているはずの「顔」という存在を捉えようとしているのだ。より具体的に言えば、他人の顔を前にした時のまなざしのあり方、あるいは心の在り様に彼女の関心は向かっている。どういうことか? 

 保坂はここで哲学者アルフォンソ・リンギスを引用する。「私が他者の顔の上に見るものは光の凝縮のようなものです。(中略)人は光によって呼び出されるのです。光は召還のようなものです。光は私たちを誰かの視線のなかに呼び出すのです。」と。そして続けて書く。

 私たちを世界に招き入れるきっかけとして、光は、あるいは顔はある。では、なぜ私たちは顔の上に光の凝縮を見てしまうのだろうか? それは顔が、「有機体の開示=露呈の場であり、有機体の傷つきやすさが露わになる場である」からだろう。そこから、こうも言い換えられる。「顔が顔であるのは、敬意を払って顔を見る、伏し目の視線を要求するから」なのだ。
 「顔を見る」とは、それをためつすがめつ解剖的に見ることではなくて、他人との間で、互いに敬意をこめた視線を交わすことを意味していなければならない。そうした顔のあり方が忘れられている今日、安藤の作品の持つ意味は、はかりしれなく大きい。

 保坂の言葉には説得力があり、なぜ私たちが安藤の作品に惹かれるのか教えられる。個展は28日(土)まで開かれている。東京であまり見ることのできない安藤陽子の作品をぜひ見てほしい。
       ・
ユニークな日本画家 安藤陽子展(2010年9月26日)
       ・
安藤陽子
2012年6月30日(土)−7月28日(土)
11:00−19:00(日月祝休)
       ・
ギャラリーαM
東京都千代田区東神田1-2-11 アガタ竹澤ビルB1F
電話03-5829-9109
http://www.musabi.ac.jp/gallery/