恩地日出夫の自伝と山田風太郎日記の交差点

 映画監督恩地日出夫の自伝『「砧」撮影所とぼくの青春』(文藝春秋)を読む。1933年1月東京生まれの恩地は昭和19年8月、小学校6年のとき長野県飯田市学童疎開する。「とにかく腹がへった。軒先の干柿を盗んだ。栗林に盗みに入り、見つかって、追いかけられ、足がすくんで有刺鉄線にひっかかり、血を流した」。終戦の日

 そして8月15日、ぼくは、飯田市郊外伊賀良村の果樹園農家の離れ座敷で父と祖母と3人で、ラジオの天皇の声をきいた。妹は飯田市西教寺の集団疎開の宿舎で、母親と弟は山形県の母の郷里の親類の家と、一家離散の状態だった。家族全員が焼け残った世田谷の家で暮らせるようになったのは1年後の46年9月からのことだった。

 『くノ一忍法帖』などで有名な作家山田風太郎は1922年1月兵庫県生まれ、恩地より11歳上になる。昭和20年6月、在籍していた東京医科専門学校とともに飯田市疎開する。山田風太郎『戦中派不戦日記』(角川文庫)より、

(昭和20年6月)25日(月) 曇後晴
 ○朝6時起床。曇。(中略)8時新宿青梅口につく。(中略)午前10時10分、中央線にて新宿発。混雑言語に絶し、通路はおろかみな座席に立つ。(中略)
 さようなら、東京よ!
 ○飯田に(午後)9時過ぎにつく。
(中略)
27日(水) 曇
(前略)午後、馬車にのって飯田市郊外上郷村なる天理教会伊那支会の別館に移る。
(8月)15日(水) 炎天
 ○帝国ツイニ敵ニ屈ス。

 恩地日出夫山田風太郎終戦前後飯田市に暮らしていた。二人がどこかですれ違った可能性はあったかもしれない。
 当時飯田に暮らしていたわが師山本弘は恩地より2歳上だった。こちらの二人はそこで知り合っていた。二人がどんな会話をしていたか、いつか監督に会って聞いてみたい。