二流の美術館もある

 アーロン・エルキンズ『画商の罠』(ハヤカワ文庫)を読んだ。画商が主人公の勤めるシアトル美術館にレンブラントを寄贈すると言ってきた。しかし寄贈の条件として、作品を見るだけでレンブラントかどうかを判断すること、科学的な検査は一切しないこと、レンブラントだと判断したら寄贈するが、5年間は真作として美術館に展示すること。その過程で殺人が起きる。さて、初めの方に二流の美術館について触れられているくだりがある。

 ここで断っておかなければならないが、今わたしたちが話題にしているのは、有名な画家たちの作品ではあるが歴史に残る名画ではない。画家だってほかのみんなと同じだ。調子の悪い日もある。ふつうは画家自身が不出来な作品を破棄してしまうか、その上に別の絵を描くものだが、そういう不出来な作品が後世に残ることもけっして少なくない。そして、ヨーロッパの小さな美術館のなかには、それにアメリカの美術館のなかにも、これに乗じて比較的安い価格でこういう作品を買い集め、巨匠の名前はそろえてあるが名作はひとつもないというコレクションを作っているところがある。わたしとしては、こういうやり方で美術館を発展させるのは好まない。これは美術館に来る平均的な美術愛好者は愚かで、絵の作者の名がピカソとかマチスとなってさえいれば、その絵の出来などわかりもしなければ、気にもしないという信念に基づいているからだ。それどころかもっと悪いことに、こういうやり方は、ほかでもないその手の鑑賞者をますます作りだしてしまうのだ。(「まあっ、見て、本物のピカソ! きれいじゃないこと?」)

『画商の罠』はそこそこ面白かった。レンブラントが本物か偽物かは途中でだいたい推測できてしまったが。
 上記で「ヨーロッパの小さな美術館のなかには、それにアメリカの美術館のなかにも」とあるが、もちろん日本のなかにもあるだろう。何年か前、骨董市でみつかったゴッホの屑のような作品に数千万円の値がついて新聞記事に取り上げられたことがあった。あんな屑でも購入した美術館では「ゴッホの作品」として展示されるのだろう。購入したのは、たしか中国地方の美術館だった。


画商の罠 (ミステリアス・プレス文庫)

画商の罠 (ミステリアス・プレス文庫)