渡辺京二『私の世界文学案内』を読んで

 渡辺京二『私の世界文学案内』(ちくま学芸文庫)を読む。もう30年も前になるが、その頃日本近代史や近代日本思想史関係を読みあさっていた。それで北一輝に関する本も何冊か読んだ。北一輝に関しては松本健一の『北一輝論』が評判が高かったが、私はむしろ渡辺京二の『北一輝』の方が良いと思っていた。数年前、渡辺京二の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を読んで、著者に対する信頼をさらに深めた。書店に並んだ新刊書の中に『私の世界文学案内』を見つけたとき、そんなわけですぐに購入した。
 本書は『看護学生』という雑誌に1978年から1980年に連載したものだという。もう30年以上も前になる。世界文学から23冊が紹介されている。この渡辺の紹介文がいい。渡辺は、あとがきで「もともと連載当時から、何の用意もなく行き当たりばったりに作品を選び、締切に追われて一晩で書きとばしたものなので、本当は内容の手直しをいくらかしたかった」と書いているが、本当にこれが一晩で書きとばしたものなら、世の評論家はみな己の無能さ加減に筆を折ってしまうんじゃないだろうか。
 カフカの『変身』を論じて、これは家庭小説だという。「主人公がいやらしい昆虫に変身するという設定が異常なだけで、あとはまったくのリアリズム小説なのだ」。
 トルストイ戦争と平和』について、

……私はこれで、この小説を5回読んだ。死ぬまで、あと一度は読みたいと思っている。この小説は、いわば人類史の奇蹟だと思う。人類は二度とこんな小説を生むことはあるまい。

 フォークナー『響きと怒り』のなかで、

 しかし、作家というものはけっして方法で作品を書いたりするものではない。彼の方法は、彼自身の感受性の特異さ、彼がかかえこんでいる生の独特な課題と密接にかかわっていて、いわばその人特有の意識のねじれが個性的な方法を生み出すのだ。だから、フォークナーが『響きと怒り』で用いた変わった小説のつくりかたは、『響きと怒り』の内容と切り離せない関係にある。

 アラン・シリトーの『屑屋の娘』のなかにも興味深い一節がある。

……シリトーの小説を読めば、イギリスには、労働者階級の生活のながい伝統があることがわかる。なにしろこの国は、労働者階級というものが、世界ではじめて成立した国である。労働組合もここではじめて生れたし、ながい歴史をもっている。親子代々の労働者というやつがどこにでも転がっているわけで、彼ら自身の生活習慣や、感情や価値観が、ひとつの文化として根強く生きつづけている。それが、上流と下層のちがいはただ金のあるなしだという、日本の場合と非常に異なったところだ。

 アルベルト・モラヴィアの『軽蔑』も取り上げられている。これはゴダールの同名の映画の原作となったものだ。若い頃読んで好きな小説だった。
 こんな調子で23冊が紹介される。それらの題名を挙げると、トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』、バルザック『従兄ポンス』、スタンダールパルムの僧院』、ドストエフスキー罪と罰』、オースティン『自負と偏見』、ロレンス『息子と恋人』、トマス・ウルフ『天使よ故郷を見よ』、セルバンテスドン・キホーテ』、チェーホフ『黒衣の僧』、ギュンター・グラス『猫と鼠』、フィリップ・ロス『狂信者イーライ』、ソール・ベロウ『犠牲者』、マルグリット・デュラス『ラホールの副領事』、アイリス・マードック『着られた首』、ソルジェニーツィン『マトリョーナの家』、ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』、ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』、アレホ・カルペンティエール『失われた足跡』となる。
 著者はちくま学芸文庫版のあとがきで、今ならロスやベローはとりあげなかったし、かわりにブルガーコフ巨匠とマルガリータ』、ヴァルガス=リョサ『世界最終戦争』、パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』は抜かさなかっただろうと書く。以前出た朝日文庫版の「あとがき」でも「わが最愛の短篇『犬を連れた奥さん』(チェーホフ)をなぜとりあげなかったのか、今でも残念である」と書き加えている。
 これら27冊のうち、私が読んだことがあるのはたった7冊だった。まあ、これから読む楽しみが残っていると考えよう。


「逝きし世の面影」を読んで(2010年4月13日)


私の世界文学案内―物語の隠れた小径へ (ちくま学芸文庫)

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北一輝 (ちくま学芸文庫)

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