国立新美術館の野田裕示展がすばらしい


 六本木の国立新美術館で野田裕示展が開かれている(4月2日まで)。これが本当にすばらしい。野田は1952年和歌山県生まれ、多摩美術大学を卒業した翌年すでに伝説の南画廊で個展を開いている。その後ギャルリー東京ユマニテで個展を繰り返してきた。
 私はここ20年ほどユマニテでの個展を見てきたが、今回まとめて見て野田のすばらしさを実感した。世の中には大きな絵画があると思った。画面の大きさではもちろんない。女性の肖像を描いている小さな絵画と比べての話だ。小さな絵画とは具体的には小磯良平あたりをイメージしている。
 野田は初め箱形の作品などを作っていた。それが徐々に変わってきて、90年代の作品はとても洗練されたものになっている。しかし初期の箱形に見る物体性はレリーフ様になって消えることはない。野田は画面にキャンバスを貼り重ねる。
 宮崎進の言葉が紹介されていた。

野田が近づこうとしたもの。それは自分の内部であろう。そこには外からでは想像もつかないものがあって、自身にも捉えることの出来ない自分がある。その得体の知れない自分を追い廻して近づこうとすればする程、彼には何も存在しない荒野のような空間だけが見えてくるのかも知れない。彼の瞼の裏にあるものは、人間の力では到底及ばないものを画面の上に捉えたいかに見える。茫然としてかたちのない無限なものを求め、イメージを物質のなかに捉え直そうとするのである。

 いや、これは違うと思う。宮崎が語っているのは実は自分のことなのだ。麻袋(ドンゴロス)を貼り重ねた宮崎の画面こそ、宮崎の深い内面なのだ。長期間シベリヤに抑留された苦しい絶望的な記憶なのだろう。だが野田の貼り重ねられたキャンバスの画面は違う。宮崎の内面の情念と異なり、野田の画面は専ら造型のために奉仕されている。
 野田の作品に対しては建畠晢の言葉の方が的確だろう。

野田裕示は画面に物質的な厚みを与えることによって、絵画というものの平面性を批判的に検証してきた画家である。彼の作品は絵画の本質を考察する絵画、いうならば絵画論的な絵画なのだ−−。野田についての従来の議論は、総じていえば、そのような画家としてのポジションを巡るものであった。たしかに彼はすぐれて理知的な資質を持つ画家であり、絵画を成立させるフォーマルな条件の探求を制作そのものと一体化させてきたといえよう。だがそれがすべてであるならば、彼の作品はこのようにもふくよかなポエジーを宿すことはなかったはずである。

 野田の作品は暖かくユーモラスである。宮崎のような厳しい不毛な荒野ではない。
 新作の《WORK 1766》は見事だった。天地387.8cm、左右651.5cmという大作で、その制作過程を撮影したビデオが上映されている。それを見ると、野田は逡巡することなく淡々と制作を進めていく。この制作方法は母袋俊也や日本画家の方法と同じように見える。下絵を作り込んで、それを元にタブローを完成させていく。それと正反対なのが野見山暁治の方法で、キャンバスに直接描き始めた線は翌日には消され、仕上がった作品は元の形を残すことなく全く別のものに変わっている。どちらが正しいというものではなく、2つの制作方法があるということだ。

 京橋のギャルリー東京ユマニテでは、現在「野田裕示 1984−2012」という個展が開催されている(2月25日まで)。こちらは小品を中心に50点もの作品が展示されている。これも併せて見てほしい。
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野田裕示「絵画のかたち/絵画の姿」(国立新美術館開館5周年)
2012年1月18日(水)−4月2日(月)
毎週火曜日休館、ただし3月20日(火)は開館、翌21日(水)は休館
10:00−18:00、毎週金曜日は20:00まで、3月24日(土)は22:00まで。
http://www.nact.jp/
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野田裕示 1984+2012(ギャルリー東京ユマニテ
2012年2月6日(月)−2月25日(土)
10:30−18:30(日曜、祝日休廊)
東京都中央区京橋2-8-18 昭和ビルB1F
電話03-3562-1305
http://g-tokyohumanite.jp/