「本人が意識することのない認知」について

(昨日の続き)
 山鳥重の『言葉と脳と心』(講談社現代新書)を読んで、「本人が意識することのない認知」という概念を知ってとても興味を惹かれた。「認知(ここでは、この言葉を「入力情報の高次処理」という広い意味に用います)と言語と意識という3種の心理過程は決して三位一体ではな」い、と書かれている。私が何度か経験した不思議な事柄を説明してくれているように思える。

 森山(徹)の「心」の定義に問題があると思う。人間の心を考えた場合、まず意識がある。その下位に無意識がある。さらに下位に内蔵の認知がある。内蔵の認知というのは、食べ物が胃袋に入ったときに消化すべき食べ物だとして消化活動をする胃袋を考えることができる。また黴菌が入ってきたときの白血球の対応を考えてもいい。胃袋も白血球も認知をしているだろう。しかし胃袋も白血球も心を持つとは言わない。
 下等動物の反応は内臓の認知に似ているのではないか。単に先験的にプログラムされたものなのだ。それは決して心の反応というものではない。内臓の認知が発達してそれが無意識にまで進化し、さらに進化して意識を作るのではないか。飼っている猫を見ていると、猫には心があると思う。意識があるのは事実だ。山本弘の遺児Sちゃんは飼っていたヒキガエルが懐いていたと教えてくれたし、カマキリさえ彼女に懐いていたと言っていた。カマキリの件は、昆虫学者の梅谷献二さんから軽く否定されてしまったが。
「ダンゴムシに心はあるのか」を読んで(2011年6月27日)

 粘菌という下等な生物に知性が認められるのか。われわれが食事をすると胃液が分泌されて食物が消化される。あるいは呼吸をすると空気が肺に入り酸素が取り込まれる。われわれは消化や酸素の取り込みを意識的に行っているのではない。身体が反応しているのだ。粘菌の行動もわれわれの身体の反応と同じレベルではないのか。
 人は知性を発達させた。知性=意識がものを考えている。しかし、粘菌の行動や身体の反応が基本なのであって、元来、知性=意識は必要ではなかった。知性抜きで生物は多くのことを成し遂げている。人の知性が余分で特殊なものなのだ。さて、では無意識はどこに位置づけられるのか?
「粘菌 その驚くべき知性」を読んで(2010年11月2日)

 文章をつづる。言葉を考える。別の言葉を探す。言葉が浮かび出る。その言葉を文脈の中に組み込んで検討する。また別の言葉を探す。新しい言葉を文脈の中に入れる。それに決める。
 探し出した言葉が妥当か否かは、具体的に文脈の中に入れてみないと分からない。文脈の中に入れるとは、この時黙読するということだ。黙読は私がしている。その採否の決定も私だ。ではその言葉はどこから現れるのだろう。黙読するのや採否を決定するのは〈私〉だ。だがその言葉が現れるのは〈私〉ではない。もっと深い無意識の領域だ。それって何だろう。
言葉の生まれるところ(2008年11月10日)

 この「言いさして」という言葉はこの時生まれて初めて使った。自然にこの言葉が出てきて、でもこの意味で良かったのかと迷い、辞書を引いたら「言いかけて途中でやめる」とある。正しく適切な使い方だ。ではこの言葉を考えついたのは誰だろう。確かに私の思考に浮かんできたものだ。だが、自分でこの言葉の意味がよく分かっていたわけではない、その証拠に辞書を引いて確かめている。私という意識主体はよく分かっていなかった。しかし、適切な選択だった。一体、私ではない誰が考えているのだろう。無意識が考えているのだろうか。その無意識とは何だろう。
誰が考えているのか?(2007年10月1日)

 特筆すべきはまず思索の起点そのものを百八十度転換させたこと。いかなる思索であれ、意識、すなわち「我思うゆえに我あり」から始めるのが定番だが、著者は身体から語り始める。身体は呼吸にせよ歩行にせよ反復から成り立つ。それがうまくいかなかったときに初めてそれまでの身体の慣習が意識される。意識は実体ではない。先験的あるいは超越論的といわれる時間空間意識でさえも身体が育んだ慣習にほかならない、というのだ。明確なカント批判だが、分かりやすく説得力がある。「神話と舞踏」という副題が腑に落ちる。

 なんと魅力的な考え方だろう。下等生物には意識がないこと、人間でも内蔵には意識が及ばないこと、血液の循環にも胃腸の消化活動にも意識は全く関与していないこと。まず身体があるのであり、その及ばない部分に意識が発生したのだろう。身体をもっと重視するべきだ。
山崎正和『世界文明史の試み』の書評から(2012年1月31日)

 カイ白色と読むんだと言ったとき、とっさに「石灰のカイ」という言葉が出て来た。頭脳の中の回路はどんな風に結ばれているのだろう。とっさに石灰のカイと考えたのは誰なんだろう。
 パスタ屋さんのショーウインドウに飾られている皿に盛られたパスタから数本のパスタが伸びてその先にパスタが絡められたフォークが浮いている。不意に浮かんだ「石灰のカイ」という考えが、浮き出たフォークに引き上げられたパスタを思わせたのだった。
とっさに考えたのは誰か?(2009年3月17日)

 道を歩いていて急に手紙を持ち歩いているのを思い出した。何かポストのイメージが浮かんだ。この辺りにポストがあるような気がして探すと歩いてきたビルの陰にあるのを見つけた。手紙を投函して考えた。なぜ今急に手紙のことを思い出したのか。
 以前からこの辺りを歩くことがあったので、ポストがあることを覚えていたのかもしれない。それで手紙のことを思い出したとも考えられる。
 あるいは、歩いてきたとき意識しない背景の風景の中にポストがあることを、意識の潜在的過程が気付いて手紙のイメージを呼び出したのかもしれない。
 おそらく後者なのではないか。日常の風景を、意識は見ていながらその上を滑っていく。背景にいちいち丁寧に付き合っていたら普通に歩くこともできないだろう。ところが、何か違和感があるものに気付いた時、立ち止まり注目する。人が倒れている! とか、鞄が落ちているとか。そして、滑っていく眼と注目する眼の中間の状態が、潜在的意識が気付いたというケースなのだ。意識的には気付いていないが、ちゃんと拾って「手紙」のことを思い出させている。
突然なぜ思い出したのか(2007年2月8日)

 これらの無意識や潜在意識が「本人が意識することのない認知」という概念のように思えるのだ。


言葉と脳と心 失語症とは何か (講談社現代新書)

言葉と脳と心 失語症とは何か (講談社現代新書)