『『羊の歌』余聞』から加藤周一の言葉

 加藤周一著・鷲津力=編『『羊の歌』余聞』(ちくま文庫)を読む。いつもの加藤周一のきらきら光る印象的な言葉の数々。

 日本の散文は著しく抒情詩によって浸透されている。平安朝の物語、江戸の俳文が典型的だが、総じてその他の文章も、歌の叙情と、俳句の観察とを主な特徴にしているように思われる。その特徴は、たとえば明治以後のいわゆる「私小説」にまでつづいているのだ。「私小説」は分析しないし、推論しない。従ってまた構成もしない。ただ正確で細かい観察と、一種の叙情的な雰囲気によって、すぐれている。

 加藤周一は1970年にベルリーン自由大学へ行って教えた。

 ベルリーン自由大学は、戦後アメリカが作った大学です。フンボルト大学が東ベルリーンに入ってしまったので。アメリカはその頃、マッカーシズムの時代です。マルクスの名前を聞いただけでもゾッとするという雰囲気です。アメリカの学者の大多数も、その頃はマルクスに無知でした。アメリカの教師一般はほとんどマルクス主義を知らない。だから大学の中に何もない。学生たちは誰の口からもマルクスのマの字も聞いたことがなくて、60年代の終りまで来てしまったわけです。彼らがどういう経路で60年代末のマルクス主義的な学生運動に入ったかというと、あの頃復活したフランクフルト学派の、ホルクハイマーとかアドルノとかベンヤミンとかマルクーゼとか、それからライヒとかね、そういう人たちの著作を通してです。60年代にはそういう文献が沢山出ています。彼らはマルクス・エンゲルスの著作ではない左翼文献を読んでいた。

 ではマルクスの何を読めば良いかと聞かれた加藤は、学生たちにマルクスの読書案内をする。

 まず『資本論』はおよしなさいと言った。まず第一に難しい。第二に長い。第三に両者が絡んで、読み通してちょっと面白いとはそう簡単にいかないだろう。しかし、マルクスを全然知らないでマルクス主義の運動するのもうまくないから、応急処置として、1カ月くらいのうちに、少しわかったほうがいいだろう、それには経済学については『賃労働と資本』を読めと言ったんです。哲学については『フォイエルバッハ論』と『ドイッチェ・イデオロギー』。どっちも小さな本です。それから歴史分析については『フランスにおける階級闘争』。これも割に小さな本だ。しかも実に明晰な本である。マルクスは天才的な人だからどれも非常に面白い。

 マルクスは『賃労働と資本』『フォイエルバッハ論』『ドイッチェ・イデオロギー』『フランスにおける階級闘争』を読めばいいのか。
 ついで、サルトルについて、

サルトルの)哲学について言えば、彼に「方法の問題」という論文があって、わりに短い、最初に『レ・タン・モデルヌ』という雑誌に出して、あとで『弁証法的理性批判』という本の第1章の序文みたいなところに出したものです。その「方法の問題」というのは、歴史、社会、人間の現実を理解するためには二つの原則が必要で、一つはヘーゲルによって象徴されるような全体を大きく見た客観的な枠組。それと、一人ひとりの個人は歴史の段階であり社会の部分であるというのではなくて、それ自身が自己目的で一つの完結した世界をつくっているという考え。そこに深みがあり高さがあるという、しかし社会的、歴史的な広がりはない。それはキェルケゴールにもっとも鋭く代表されている実存主義です。ですからヘーゲル的歴史哲学の普遍性と、キェルケゴール実存主義の深さとの特殊性、その交わるところに現実があるということを「方法の問題」は言っているわけです。
 その二つの軸に沿って、いわばその交叉点に人間的現実を見るという態度が、他の哲学者に比べて、20世紀の哲学の中でも彼がもっともはっきりと、全力をあげて研究した中心問題です。それはまた20世紀の社会の中心的問題でもありました。それはヘーゲル的枠組−−それはあとでマルクスになるわけだけれども−−、それと実存主義的な個人の経験との両方が交わるところに人間が位置する、ということですが、その二つの見方による人間理解の関係を体系的に解決し、体系的に叙述ということには彼は成功しなかったと思います。しかし他の誰も成功しなかった。

 日本語が俗説と違って論理的な言語であることについて、

「日本語はあいまいである」という誤った俗説がある。日本語をあいまいなし方で用いる人が、世間に多かった、ということは、一つのことである。日本語の性質そのものが、あいまいな表現しか許さない、ということは、また別のことである。「よく考えたことが、はっきり表現される」のは、17世紀のフランス語に妥当するばかりでなく、20世紀の日本語にも、妥当すると思う。それにも拘わらず、しばしば世間にはあいまいな表現が通用してきたのである。その理由は日本語そのものにではなく、日本語のそのような用い方を一般化してきた文化の性質にもとめなければならない。遠くは享保の富永仲基が、はやくも、文化と言葉の密接な関係に注目し、近くはレヴィ=ストロースLevi-Straussが文化および言葉の通時的側面(歴史的条件)と同時的側面(合理的構造)とに注意している。言葉から入って、言葉を超える問題が、彼らの仕事の延長上で、追求されなければならないだろう。

 加藤周一がきわめて明晰で論理的なのは、ドイツとカナダで長く暮らしたせいだろう。それらの地で論理的な表現が鍛えられたのだ。「あいまいな日本語」は日本語の根本的な性質などではなく、日本語を使っている日本人の文化の問題だったのだ。海外に長く暮らしていた画家たちの文章が優れていることも同じ理由による。野見山暁治池田満寿夫堀越千秋らがその例だ。そのことは以前ブログで書いたことがあった。

名文家になる方法(2009年5月23日)

『羊の歌』余聞 (ちくま文庫)

『羊の歌』余聞 (ちくま文庫)