友人からの古い年賀状

 押入を引っかき回していたら、友人からの古い年賀状が出てきた。昭和52年(1977年)のものだ。差出人の活司は古い友人だったが、もう亡くなってしまった。そのことは以前ブログに書いたことがある。この年賀状をここに書き写す。

年移り 物変われども変わらぬこころ
    めでためでたと とそ五盃


という正月にする心算が、みそかに借家の契約、大晦日の引越しで大騒ぎ、おせちもへったくれもあったものではなく、三ケ日は茶漬けで荷物の整理にいそしみ、六日に至ってやっと完了、齢二十七にして念願の家風呂につかり、うれしさに目のくらむ程長湯して、やっとありついたウィスキィ。けれども八帖、六帖、洋風四帖半、バス・トイレ・広い玄関、縁側、裏口、物置きの一戸建てはどうみたって分不相応、月末の支払を考えるとゆっくり酔えるどころではなく、年計の早春にして、前途絶望の思いにまっさおになっております。(後略)

 いつも思うがうまい文章だ。どうして文筆で成功しなかったのだろう。
 ついで差出印が昭和56年(1981年)10月25日という手紙も出てきた。

フナよ、貴兄の激昂退散の後、私もすぐに帰宅し、席上流石にはばかられて口には出せないまま別れてしまったけれど、既にあの時私は一人暮らしで、離婚別居の身、つらつら愚痴を申しあげるのは幸福の家庭に不安投げかける様で、いや事実そのとおりで今さらまことに恐縮の次第でありますが、眠られぬ夜を転々、ずいぶん寂しい思いをしました。心の説明はむつかしいので、それに私は朝から飲っているざまの毎日なので、思慮分別のまことに浅く、それはもう貴兄に会った時既に、その様な状況でありました故、ここにきて釈明の余地もありますまい。実につらかった、先生に叱られている様な気がした、暴言お許しください。(後略)

 フナというのは当時の私の呼び名。いったい何があったのだろう。この頃の日記を見てみると、活司の手紙の3カ月前の7月26日の日記にそのことが書いてあった。山本弘さんが7月15日に亡くなり、26日に葬儀があった。葬儀後精進落としとして寺で飲み、その後山本夫人の実家である焼肉屋北京楼で飲み、さらに活司に誘われ2人で活司の友人が経営するかつ禅へ行って飲んだ。日記には「つまらぬことを言う活司を叱る。帰宅9:00’、したたか酔う。」と書いている。
 しかし活司との思い出は楽しいものばかりだ。亡くなってもう25年になる。生きていれば喧嘩をしたかもしれないし、絶交さえしたかもしれないが、好きだったことには変わりがない。
活司命日(2006年10月27日)