アラン・ドロンへのオマージュ

 毎日新聞2011年12月25日の「好きなもの」というコラムの筆者はシンガー・ソング・ライターの畠山美由紀だった。このコラムは各界の有名人が毎回好きなもの3点をあげ、その理由を書いている。畠山の好きなものは、1.脚注、2.遠野、3.アラン・ドロンだ。小説の脚注が好き、『遠野物語』の遠野が好きと書いて、3番目がアラン・ドロンだという。

3.アラン・ドロン
 「ドロン」という響き。
 このグローバルな世界では、すでに失われた西欧世界特有な美。
 ビスコンティに愛されたイノセンス、今や死語である「ハンサム」を体現した「太陽がいっぱい」や「冒険者たち」、スキャンダラスな中年時代、老いたカサノバを演じる心意気、その全てを私は愛する。
 東北から上京した私の背徳。
 首の方が顔より太い、現在のハリウッド俳優にはない均整。
 嗚呼(ああ)、黄金比率とは彼のためにある言葉。
 たった1日でよいから、いっそ家政婦でよいから彼のもとで暮らしてみたい。

 原文はすべて追い込み(改行なし)。いっそ心地よいオマージュだ。「たった1日でよいから、いっそ家政婦でよいから彼のもとで暮らしてみたい」との言葉は、シャンソン歌手ジャック・ブレルの「行かないで」を思い出す。

行かないで
僕はもう泣かない
僕はもう話さない
ここに姿を隠そう
そして君を見ている
踊って笑う君を
君の声を聴こう
歌って笑う
ならせておくれ
君の影の影に
君の手の影に
君の犬の影に
行かないで
行かないで
行かないで
行かないで

「ならせておくれ/君の影の影に/君の手の影に/君の犬の影に/行かないで」と歌う。行かないではフランス語で「ヌムキテパ」、そのルフランがとてもきれいだ。
 さて、そのアラン・ドロンについて塩野七生が手厳しく書いていた。

 アラン・ドロンは私の好きな俳優ではない。男としても、好きなタイプには入らない。鼻から下が卑しいのである。
(中略)
 アラン・ドロンは美男である。だが、あの美しさは、下層階級の男のものである。気品とか品格とかいうものとは無縁の、美男なのだ。魅力は、たしかにある。新人発掘では有名なイタリアの映画監督ラトゥアーダに言わせれば、有望な新人を見つける場合の眼のつけどころは、その新人の眼なのだという。眼がよければ、スターになる可能性も大ということなのだろう。この尺度に従えば、アラン・ドロンは、スターになること必定の眼の持ち主だと、私も思う。しかし、なぜかかもし出す雰囲気が卑しい。だからこそ、下層の男を演じたときの彼は見事なのだろう。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンは傑作だった。

アラン・ドロン、下層階級の美男(2007年6月28日)
 ここで「長い引用になってしまったが、このエピソードはジョン・レノンオノ・ヨーコのことを思い出させる。そのことについては、また」と書いたエントリーはこれ。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの結婚(2007年6月30日)
 前に戻って、畠山の言葉「東北から上京した私の背徳」は、サリンジャーの短篇小説「エズメのためにーー愛と背徳をこめて」を思い出す。
サリンジャー「エズメのために」の副題をめぐって(2006年7月27日)