友人Kの祥月命日

 今日は友人Kの25年目の祥月命日だ。半年ほど前にKの眠る飯田市の正永寺へ参ったら、Kの木の墓標が倒れていた。24年たてば木は腐るのだ。いや、立派な石塔にすべきだなんて言うつもりはこれっぽっちもない。立派な墓石は遺族の虚栄心にすぎない。それは死者とは何の関係もない。友人の原和が命を絶って何年になるだろう。彼の墓には2度ほどしか行っていない。私にとって原和の聖地は墓ではなく亡くなった地、焼け落ちた彼の住居趾だ。毎年何度か訪ねている。
 Kの墓に行くのはそこより他に聖地とすべき場所を知らないからだ。飯田市には彼との思い出の場所がない。だから正永寺の墓に行っている。木の墓標が朽ちてもいい。何もなくても問題はない。また、そこに行こう。K、亡くなってもおまえは俺の大事な友達だ。