原武史「滝山コミューン1974」を読む

 原武史「滝山コミューン一九七四」(講談社文庫)が面白かった。原は1962年東京都生まれの日本政治思想史学者。日本住宅公団東久留米市に建てた巨大団地である滝山団地に両親とともに引越し、団地のなかにできた第七小学校へ入学する。そして滝山コミューンとは著者が小学校5年生と6年生のとき、つまり1973年と1974年の第七小学校(七小)のことを指している。
 当時七小に一人熱心な若い教師片山先生がいて、日教組の勧める「学級集団づくり」を推進する。学級集団づくりはまず「中心学級」をつくる。中心学級=自覚した学級が、学級集団の活動を、常に全校の基礎的集団としてひきあげるように展開し、そこから出た課題を、他の学級、学年に提起して取り組みを要請する。そこで育ってきた集団的力量を、児童会、生徒会リーダーの取り組みや、全校行事への取り組みで発揮させていくとする。
 事実、片山先生が担任する中心学級が、選挙で代表児童委員会の各種委員長を独占する。七小が集団教育へ傾斜していく。それが原武史には苦痛だった。林間学校の行事が児童たちの討議によって決められていき、運営も児童たちに任されるような体制をとる。しかしそれは実際は片山先生の指導によるものだった。原は過度な集団教育に反発する。
 原は毎週日曜日に私立中学入学を目指す都心の進学塾へ通っていた。それが七小の集団教育のストレスの回避に役立っていた。原の担任はクラスの希望者をサイクリングに連れて行ってくれたりした。その時知った大きな氷川神社に興味を持った。それが後年の大宮の氷川神社の研究「《出雲》という思想」(講談社学術文庫)の執筆につながる。原の鉄道好きが父親からの影響であることもここに書かれている。
 原はぶじ慶應義塾普通部に合格する。原が卒業した75年以降、かつての中心学級に匹敵するクラスはついに現れなかった。「核」となる学級を確立させられなかったことで、「滝山コミューン」は名実ともに崩壊する。2年後片山先生は大阪の小学校に転出していった。
 小学校時代の苦しかった生活をこんなに詳しく書けたのは当時の日記や作文がよく保存してあったからだ。原は団地から慶應義塾普通部という有名私立中学へ入学する。父親は厚生省の衛生研究所に勤務する研究者だった。そんな家庭環境がそのことを可能にしたのだろう。しかし、慶應義塾は団地出身の原の体質には合わなかった。大学は早稲田大学を選んでいる。
 小学校時代の分析とともに、西武鉄道やその沿線のことが東急鉄道や東武鉄道と比較される。そのことも充分に面白かった。
 小学校の教育体制をコミューンと呼ぶのはオーバーな感じもするが、そう呼びたいほど原にとって苦しかったのだろう。本書は「講談社ノンフィクション賞」を受賞している。


滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)