矢口敦子の「あれから」を読んで

 6月23日付け朝日新聞の連載コラム「東京物語散歩」はJR中央線阿佐ヶ谷駅だった。このコラムは東京の駅を取り上げて、その駅がある街を舞台にしている小説を紹介している。今回は阿佐ヶ谷駅を取り上げて、矢口敦子の小説「あれから」(玄冬舎)が紹介されていた。
 私は20代から30代初めまでしばらく阿佐ヶ谷に住んでいたのでこの街には格別思い入れが強い。それでさっそく読んでみた。
 主人公の女子高生千幸の父親がある朝倒れて救急車で病院へ運ばれ、そのすぐ後父親を捜して刑事が家にやってくる。昨夜阿佐ヶ谷駅で父親が痴漢をし、止めた青年がホームから転落して電車にひかれて死亡する事件が起きたのだ。千幸と妹は阿佐ヶ谷駅に作られた献花台を見張り、痴漢事件の関係者を捜そうとする。
 読み終わってネット上の感想文を読んでいくと、ほとんどの人が痴漢の冤罪について書いている。この小説にとってそのことは主要なテーマではない。父親の死から始まって妹の死、母の死と続き、ひとりぼっちになってしまった娘の、不幸からの緩やかな再生の物語だ。
 しかし小説は成功していないと思う。かつて、阿佐ヶ谷駅で一緒に証人を探してくれて、そのまま舞台から退場した大学生の名前が、何年も経ってから作中に再び現れたとき、作者はこうやって物語を収束させるつもりなのかと、つい作者の意図を想像してしまった。読者が物語の中から離脱し、覚めた目で作品=作者を見てしまう。妹の死も母親の死も簡単に触れられただけで、そのことによる大きな葛藤が書かれていない。千幸の経験した不幸な人生が描写されていない。
 肝腎の阿佐ヶ谷は、痴漢と電車事故が起きた駅という舞台になったものの、これが高円寺でも荻窪でも中村橋や中目黒でも何ら違和感はないだろう。もう少し駅周辺を描いたり、阿佐ヶ谷であることの必然性が欲しかったと思うのは元住人のささいなノスタルジアだろうか。
 そういえば藤本まゆみも作家になる前は阿佐ヶ谷にある杉並区役所に勤めていて、当時の体験を小説に書いていた。あれも阿佐ヶ谷を顕彰している作品ではなかったけれど。

あれから

あれから