ロシア語と日本語の同時通訳米原万里のエッセイ「ガセネッタ&シモネッタ」(文春文庫)には面白いネタが種々紹介されている。まず同時通訳料は、「同時通訳の日当は1日12万円なんです、7時間以内で。(中略)半日すなわち3時間以内で8万円です。国際通訳連盟(AIIC)というギルドがありまして、通訳条件の規準をつくっている」。
ついで「漢字かな混じり文は日本の宝」と題された章がある。日本語では膨大な漢字を憶えなければならず、その時間とエネルギーと記憶容量を考えると何たる無駄と思い込んでいたと書く。
ところが、同時通訳稼業に就いてサイトラ、すなわち「Sight tranlation(黙読通訳)」をするようになって、この考えがコペルニクス的転回をとげた。
サイトラとは、スピーカーが文章を読み上げるような場合、その原文テキストを事前に入手して、目は文章を追い耳はスピーカーの発言を確認しながら訳出していくやり方のことである。(中略)
このサイトラを何度もやっているうちに、日本語のテキストからロシア語へサイトラする方が、その逆よりはるかに楽なことに気づいた。
(中略)
表音文字だけの英語やロシア語のテキスト、あるいは漢字のみの中国語テキストと違って、日本語テキストは基本的には意味の中心を成す語根に当たる部分が漢字で、意味と意味の関係を表す部分がかなで表されるため、一瞬にして文章全体を目で捉えることが可能なのだ。(中略)
……黙読する限り、日本語の方が(ロシア語より)圧倒的に速く読める。わたしの場合平均6、7倍強の速さで、わたしの母語が日本語であることを差し引いても、これは大変な差だ。
漢字だけ追って行けば大筋の意味が判るというのはそのとおりだろう。
次はロシアにおける男のモテ条件。
日本において、男が女にモテるには、「3高」、要するに収入と学歴と身長が高いことが条件らしいが、ロシアにおける必須3条件は、次の通り。
・頭に銀(ロマンス・グレー、要するに、禿げないということ)。
・ポケットに金(やはりお金持ちがよろしい)。
・股ぐらに鋼鉄
米原はロシア語の教科書にこれを書いたら、出版社からクレームがついた。「股ぐらに鋼鉄」の品位が問題とされ、これのみロシア語の原文に和訳をつけないで、ご自分で辞書を引いて意味を調べてくださいと注釈で逃げたのだが、教科書が店頭に出回って2週間もしないうちに5通もの手紙が届いた。すべて「股ぐらに鋼鉄」という訳文をひねり出したが、どういう意味なんでしょうかと質問してきたものだった。
このほか、トルストイが醜男でしかも人一倍強い性欲の持ち主で、領地からモスクワまでの道筋に子供が200人も産み落とされたとか、ドストエフスキーが一目惚れしたサロンの女主人公パナエワは、彼のことをやせっぽちでチビで病的な顔色をした風采の上がらない男と評したという。対してツルゲーネフは、どんな女も夢中にさせる美形と言われていたし、チェーホフについてはロシア文学史上、ツルゲーネフを凌ぐ美男作家とのこと。身長190センチもあったという。
米原は短いエッセイをたくさん依頼されてそれを一定の水準で書き続け、やがて長文のエッセイの依頼があり、ついには「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」や「オリガ・モリソヴナの反語法」という傑作を書くに至るのだ。
- 作者: 米原万里
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