「日本的感性」がとてもおもしろい

 佐々木健一「日本的感性」(中公新書)がとてもおもしろい。題名が硬いが、副題は「触覚とずらしの構造」、いやこれも硬い。だが内容はおもしろいのだ。
 著者は美学が専門の学者だが、本書は古今の和歌を分析して日本固有の感性を探り出そうとしている。まず日本人の好む桜と西洋人が好むバラを取り上げ、バラは見つめる対象だが、桜は群生の美で包み込むのが特徴なのだという。
 そこから古今の和歌が取り上げられ、詳しく分析される。和歌を手掛かりにして著者の主張する日本人固有の感性を見出していく。ざっと数えて150首ほどが取り上げられる。その解釈が斬新でおもしろいのだ。

 本歌取りの例を挙げよう。いずれも定家の詠である。


  忘れなんまつとなつげそ中々にいなばの山の嶺の秋風  (「新古今集」968番)
  松山と契りし人はつれなくて袖こす浪にのこる月かげ  (「新古今集」1284番)


 どちらも「古今集」の次の名歌をそれぞれの本歌としている。


  立わかれいなばの山の嶺におふる松としきかば今かへりこむ  (在原行平
  君をゝきてあだし心をわがもたば末の松山浪もこえなむ  (詠み人知らず)


 注目すべきは、これらが本歌に、ある「ひねり」もしくは「ずらし」を加えていることである。行平の本歌が「まつとし聞かば今帰り来む」とうたっているのに対して、「まつとなつげそ」と言う。東歌が「あだし心をわが持たば末の松山浪もこえなむ」と言うのに対して、ここではすでに「つれなく」なった心の「浪こす」結果がうたわれている。望郷もしくは忠実な心のきずなの表白は、故郷を捨てる覚悟に、また恋の誓いのうたは心変わりのうたへと、それぞれ造形的に変形されている。歌人は本歌に対して距離を取り、批判的に向き合っている。この批判的な距離が技法主義の前提である。(中略)
 右に引用した1284番の下の句に注目しよう。標準的な表現ならば、浪の「こす」のは袖ではなく「山」だし、「月かげ」が「のこる」のは浪ではなく「袖」である。定家が標準的な語順をばらばらにして組み直したことが分かる。組み直すことによって、かつてない新しいイメージをそこに創りだそうとするのである。事実、われわれは、そこにある不思議さを感ずる。なるべく遠い語同士をぶつけることによって、斬新なイメージを創出することが、シュルレアリスムの戦略であった。

 数々の和歌の分析を通じて、日本的感性がある特殊な傾きを持っていることが示される。著者はそれを論証し主張する。それが難しくてよく理解できないのだ。日本的感性が特殊な傾きを持っていることは分かった。だが、それ以上の大きな物語を語ることができるだろうか。
 そこのところが分かりにくくても、本書は和歌の解釈としてとても豊かな内容を持っている。ぜひ一読をお薦めする。