「ダンゴムシに心はあるのか」を読んで

 森山徹「ダンゴムシに心はあるのか」(PHPサイエンス・ワールド新書)を読んだ。ダンゴムシを使ってさまざまな実験を行い、ダンゴムシにも心があるという結論を出している。著者はダンゴムシを材料にていねいで根気のいる実験を繰り返している。誠実な実験態度は読んでいて気持ちの良いものだった。さて、森山のいう心があることの定義は何か。

 これまで述べてきたように、心とは、行動する観察対象における、隠れた活動部位です。その働きは、状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発現を抑制することです。しかし、未知の状況では、自立的にある行動の抑制を解き、その余計な行動を自発的に発現させる逆の働きを持つようです。これらを総合すると、心の働きとは、「状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発現を『潜在させる』こと」と言いかえる必要がありそうです。

 森山は「状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発現を『潜在させる』こと」が心の働きだと言い、「未知の状況では、自立的にある行動の抑制を解き、その余計な行動を自発的に発現させる逆の働きを持つようです」と言う。それで、未知の状況=プログラムされた行動を破らざるを得ない状況において、「余計な行動を自発的に発現した」時に、心が現れたとする。ダンゴムシを使って、そのような状況を作り出し、結論として、「ダンゴムシに心がある」とする。
 森山の「心」の定義に問題があると思う。人間の心を考えた場合、まず意識がある。その下位に無意識がある。さらに下位に内蔵の認知がある。内蔵の認知というのは、食べ物が胃袋に入ったときに消化すべき食べ物だとして消化活動をする胃袋を考えることができる。また黴菌が入ってきたときの白血球の対応を考えてもいい。胃袋も白血球も認知をしているだろう。しかし胃袋も白血球も心を持つとは言わない。
 下等動物の反応は内臓の認知に似ているのではないか。単に先験的にプログラムされたものなのだ。それは決して心の反応というものではない。内臓の認知が発達してそれが無意識にまで進化し、さらに進化して意識を作るのではないか。飼っている猫を見ていると、猫には心があると思う。意識があるのは事実だ。山本弘の遺児Sちゃんは飼っていたヒキガエルが懐いていたと教えてくれたし、カマキリさえ彼女に懐いていたと言っていた。カマキリの件は、昆虫学者の梅谷献二さんから軽く否定されてしまったが。
 さて、本書の「あとがき」に「無名の私に執筆の機会を与え、常に励ましてくださったコーエン企画の江渕眞人さんに、厚くお礼を申しあげます」と謝辞が書かれている。ところが奥付には、著者、発行者、発行所、組版、装幀、印刷・製本所の名前はあるのに、コーエン企画の名前はどこにもない。この会社は業界でいう編プロ=編集プロダクションなのだろう。組版の会社まで書きながら、著者に次いで実質本書の産婆たるコーエン企画の名前を出さないのに対して、いささか不満を感じたのだった。


ダンゴムシに心はあるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)

ダンゴムシに心はあるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)