アイリッシュ「幻の女」を読んで

 ウイリアムアイリッシュ「幻の女」(ハヤカワ文庫)を読む。本書は「ハヤカワ・ミステリ総解説目録1953年−2003年」(早川書房)の読者アンケートの1位に選ばれている。原書は1942年、戦争中に発行された作品で、日本では1950年に翻訳が発行された。冒頭の名文句、黒沼健訳、

 夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といったところだった。甘美な夜だったが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

 稲葉明雄訳、

 夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。苦虫をつぶしたような彼の表情は、かなり手前からでもそれとわかった。

 この文章はジャズのスタンダード・ナンバー「恋人よ、われに帰れ」の一部分をもじったものだという。
 総解説目録の川出正樹による解説。

 初登場以来50年余、なぜ「幻の女」は、こんなにも長い間、多くの人々の心を魅了し続けるのだろうか。その秘密は、この作品のファンタジー性にあるような気がしてならない。哀切な物語、情感溢れる文体、行間から立ち上がる都会人の孤独感。そうした諸々が死刑執行の刻限に向かって溶け合い、ついに〈幻の女〉の正体が判るラスト−−物語がフェードアウトしていく瞬間に、読者は心の一部を異世界にもっていかれ、後にはぽっかりとした穴が残される。ふとしたはずみで各々の〈幻の女〉を思い出すたびに、何度でも口を開けるのだ。夢の中の像のように、輪郭は不鮮明なれど、不思議なまでに鮮やかに。

 しかし、私の読後感ははかばかしくないものだった。それは仕方ないだろう。戦争中の(古い)作品なのだ。日本で受けたのも、ミステリといえば、せいぜい江戸川乱歩くらいしかなかった世界だったからではないか。「幻の女」の肝腎の女のリアリティは不自然なものと言わざるを得ない。私たちは、すでにル・カレの世界を知っているのだから。


幻の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 9-1))

幻の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 9-1))