「英語と日本語のあいだ」を読んで

 菅原克也「英語と日本語のあいだ」(講談社現代新書)を読んだ。文部科学省が2013年から高校の英語教育を大幅に変えることを決めたという。新指導要領で名前を「コミュニケーション英語」に変え、会話を主体とし授業も英語だけで行うことにした。そのことを批判するのを中心に本書が書かれているが、同時にそれは日本人の英語学習についてもふかく考えることになる。
 英語で英語を教えることになると、文法を教えるのがむずかしくなる。英語で文法が説明されても生徒は理解できるだろうか。文法は日本語で教えるのが合理的だ。また会話が中心になると「訳読」という作業が教室から姿を消すことになる。日本語に訳すことをしなくて英語だけで読んだり会話をしたりするということは、テキストのレベルを落とさないとむずかしいだろう。日本語を介さないで、抽象的な議論や人間の心理を扱う英語の文章をテキストに使うことは断念しなければならないかもしれないと著者は心配している。

 英語圏での滞在経験の長い人が、意外にも読む力を身につけていないのは、けっして珍しいことではない。読む力が足りないため、せっかくの留学の機会を有効に生かせないでおわる人も多い。読む力が足りないと、書く力がつかないし、議論する力もついてこない。読む力の基礎、とくに英文の構造を把握する力は、日本の学校の教室でこそ身につけておくべきである。日本の教室でなら、日本人学習者にとって理解の難しい点をきちんと教えてくれるし、どんな疑問をもぶつけることができる。逆に言えば、読む力を養おうとしない教室は、日本での英語教育の責任をはたしていないことになる。

 最後に結論的なことが書かれている。

 高等学校の英語の授業の一部が英語でおこなわれることに、私は反対しない。だが、高等学校の英語教育から、(日本語による)文法の学習と訳読を排除することはできないし、排除すべきではないと思う。長い目で見て英語の力を伸ばしてゆくには、文法は文字どおり体得しておかなくてはならない。インプットの重要な回路として、読む力を養っておくことがどうしても必要となる。聞く力を伸ばすためには、読む力が土台となる。くりかえしになるが、日本人英語学習者が英語を読む力を鍛えるには、英語を日本語に訳してみるのが、もっとも効果的である。
(中略)
 日常生活が英語でいとなまれる場に身を置くならばともかく、日本で英語という外国語を身につけてゆくには、日本にいながら効果をあげる学習方法を第一に考えなくてはならない。それは、まずきちんと文法を学び、読む力を蓄え、聞く力を養うことである。学校の教室では、生徒たちが独力では学びにくいと感じるものを、優先して教えるべきである。それがまさに「文法・訳読」に他ならない。口頭練習は自分自身で工夫できる。

 このブログで以前、英語学習に関連するエピソードを紹介したことがあった。 池内紀の「二列目の人生」を読む(2010年9月25日) の早川良一郎と春具の語った印象的な話だ。

英語と日本語のあいだ (講談社現代新書)

英語と日本語のあいだ (講談社現代新書)