「リア美」第2号のドローイング

 針生一郎「戦後日本美術盛衰史」(東京書籍)に地方アンデパンダン展を紹介したくだりがある。

……そして、福岡、京都、関、飯田、浜松、清水、横浜、高崎、郡山などで、地方アンデパンダン展がこころみられていたこともみのがせない。

 あとがきによると、

 この本の内容は、1963年、「美術手帖」に同じ題名で連載したものをもとにしている。だが、その連載からすでに十数年たっているので、旧稿のほぼ全章にわたって手を入れ、さらに数章を新しく書き加えた。

とある。ちなみに本書の発行は1979年だった。地方アンデパンダン展がこころみられている都市のうち、飯田とあるのが長野県飯田市で、飯田アンデパンダン展は今も続いている。主催しているのが飯田市にあるリアリズム美術家集団で、かつて山本弘もここに属していた。のちに態度が悪いと退会させられたが。
 リアリズム美術家集団では「リア美」という機関誌を発行していた。その第2号が1968年11月に発行されている。会員たちのドローイングとエッセイで構成されているが、山本弘のドローイングと山本も尊敬していた会の長老関龍夫のドローイングが良かった。

関龍夫の「とり」

山本弘の「農夫A」

山本弘の「農夫B」


 後に山本弘未亡人宅を訪ねられた針生一郎さんが、山本の遺作を見ながら、この人(山本弘)がリアリズムなんておかしいねと言われた。山本の古くからの友人で、リアリズム美術家集団のリーダー格である菅沼立男さんは、飯田市の地方紙信州日報紙上で山本弘について書いた。

 アカデミズムの成果の価値そのものを疑いながら、自らの主軸はアカデミズムから離れることができなかった画家で、若くして生活の荒廃の中に身を置き、詩を作り、文学を語り、酒仙人を自認した風狂無頼の画家でもある。

 リアリズムの画家ではなかった。だが、リアリズム美術家集団のほかに行くところがなかったのだろう。
 山本が尊敬していた関龍夫さんについては、このブログに書いたことがある。詩人の田村隆一のエッセイにも登場したことがあった。


美しい舌の青い蛇、関龍夫という画家がいた(2007年9月20日