梶井基次郎「檸檬」を読んで

 世評の高い梶井基次郎檸檬」(集英社文庫)を読んだ。実は梶井を読むのはこれが初めてだった。この集英社文庫鈴木貞美のていねいな解説が付いている。

……梶井基次郎の作品世界はどれも、結核に冒されたひとりの青年の経験を、その具体性のままに書いたにすぎないようなものであり、決して、ひとの耳目を引くような新しさを誇るものではなかった。書かれているのはほんの些細な気持ちの変化ばかりで、大きな社会の動きとはほとんど無縁なものでしかない。小説の魅力のひとつである、読みながら全く別の世界を経験するような感動も得られはしない。
 にもかかわらず、その作品は没後次第に評価を高め、戦後の一時期には文学青年たちから崇拝に近い感情を集めることになる。
 実際、同世代の作家でいえば、川端康成横光利一井伏鱒二らの称賛を集め、批評家でいえば、先にあげた小林秀雄のほかには河上徹太郎がその価値を何度も論じた。少し世代が下がると、武田泰淳埴谷雄高中村真一郎福永武彦加藤周一三島由紀夫小島信夫ら、そして吉行淳之介安岡章太郎庄野潤三阿部昭開高健ら、それぞれの立場から愛好ぶりを語り、また自分の内部に訪れた梶井基次郎の影と響きを認めている作家は枚挙にいとまがない。梶井基次郎の遺した作品群は、文字どおり「昭和の古典」というべき位置を占めているのである。

 何という錚々たる作家たちの名前が列挙されているのだろう。これは「小説の神様」と言われたひと頃の志賀直哉を絶賛する作家たちの姿を思い出させる。しかしその志賀直哉は現在地盤沈下が著しい。梶井基次郎の地盤もそれに異ならないだろう。
 冷静に読めば梶井の作品は習作に他ならない。決してそれ以上のものではない。人は社会の中に生きている。社会とは人と人の関係だ。ところが梶井の作品には他人がほとんど描かれない。ひとりの青年の内面が語られるばかりだ。梶井の作品に国や時代を超えた普遍性があるとはどうしても考えることができない。梶井の作品を「昭和の古典」と呼ばねばならないほど、昭和の文学作品は貧しいものでは決してないのだ。
 あれは誰が書いたのだったか、もう50年ほど前に発行された「世界の10大小説」という新書に、志賀直哉の「暗夜行路」が選ばれていた。他はすべて外国文学で「戦争と平和」とか「カラマーゾフ」とか無難なものだった。


檸檬 (集英社文庫)

檸檬 (集英社文庫)