宮嶋光男先生追悼

 宮嶋光男先生が亡くなった。満92歳だった。宮嶋先生は私が小学校5年と6年の時の担任だった。小中高の12年間で最も印象に残る先生だった。
 宮嶋先生の葬儀が11月25日に行われ、宮嶋先生のクラスで私と同級生だった原英章君が弔辞を読んだ。

弔   辞


 私達の恩師 故 宮嶋光男先生の霊前に謹んで、お別れの言葉を申しあげます。


 私たちが先生と出会ったのは、昭和34年4月、喬木第一小学校の5年生になったときでした。今からもう50年も前のことです。私たち5年3組の担任をして下さったのが、先生でした。
 でも、私が最初に先生とお会いしたのは、担任をしていただく前の秋のことでした。その日の放課後、私はもう一人の当番の女子と一緒に、教室のゴミ箱を二人で持ってゴミ捨てに行きました。ゴミ捨て場へ行く途中に、先生が担任の子どもたちと稲を育てている小さな田んぼがあります。私は何気なしに空いている手でその田んぼの出始めた稲穂をなでながら歩いていました。
 その時、上の道から呼び止める声がしました。ふりかえってみると宮嶋先生が怖い顔をして立っていました。「何でそういうことをするんだ」小さいが厳しい声で言いました。私がきょとんとしていると「何で稲を抜くんだ」言われて手を見ると知らないうちに穂を抜いていたのでした。「だめじゃないか」と言うと持っていた傘の柄でコツンとやられたのです。痛いと言うよりよく知らない先生に急に怒られたことで涙がジワーと出てきてしまいました。
 私は、無理にやったのではない。知らないうちに手が動いていたのだ。それに一本くらいいいじゃないかと心の中で反発しましたが黙っていました。すると先生はそれ以上言わずに行ってしまいました。私は女子の前で怒られ泣いたことで惨めな気持ちになって先生をひそかに憎んだのでした。
 そういうことがあったので、5年生に進級して組替えがあったとき、先生のクラスだけはなりたくないと思っていたのです。ところが、学校へ行ってみると担任は先生でした。
 宮嶋先生のことを思い出すたびに、私はこの最初の出会いのことを思います。先生はなぜ一本の稲穂のことであんなに怒ったのか、大事に育てていた稲を何気なしにぬく行為を子どもといえども、いや子どもだからこそ厳しく注意したのだと思います。もしあの時怒られることがなかったなら、私は今でもその意味がわからない人間になっていたかもしれません。


 担任をしていただいてみると宮嶋先生は、私が思っていたような怖い先生ではなく、植物好きで、休みの日には学級の子どもたちを植物採集に毛無山や鬼ヶ城などの高い山や奥深い沢へ連れて行ってくれるいい先生だということがわかりました。先生は大きなドウランを肩にかけて、採集した植物を入れては、家に帰って押し花にし標本にしていました。間もなく私は、先生の後について、いろいろな植物の名前を覚えたり、子供用のドウランを近所のブリキ屋さんで作ってもらってそれを提げて植物採集をする子供になっていきました。
 先生は身の回りの草や木、鳥の名前などよく知っており、似ている物の区別の仕方なども実に詳しく知っていました。子どもたちが道ばたの植物の名前を聞くと必ず名前を教えてくれました。一番長い植物の名前は今でも言うことができます。リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ


 先生はいろいろなことを体を通して教えてくれました。クラスでウサギを飼ってそれを繁殖させたり、校舎の裏手の空き地に喬木村の形をした築山をつくりました。それは放課後の子どもたちの活動で、少しずつ土を運んでつくったのです。そこへ採集してきたシダ類を植えて喬木のシダの分布が一目で見えるようにしたのです。
 ある日、その築山にかなり大きなネコが死んでいました。するとその日の理科の時間は、ネコの解剖でした。放課後暗くなるころまでかかって解剖したネコの真っ赤な肺臓は今でも鮮明に思い出すことができます。
 先生はまた、珍しい野菜や熱帯植物に造詣が深く、その頃まだ珍しかったオクラの種を生徒に配ってくれたり、いろいろな球根や熱帯植物の注文をとってくれたりしました。もう50年も前のことです。
 私や私の友達たちが、今も植物が好きだったり、育てたりしているのは先生の影響があるからと思っています。このように先生は子どもたちに自然への興味と関心を育て、また、目的に向かってコツコツと積み重ねていくことの大切さを教えてくれました。
 先生のことでは思い出せば本当にいろいろなことがあります。
 

 私にとって忘れられないことの一つは、先生からお借りした植物図鑑をなくしてしまった時のことです。6年の秋のことでした。その図鑑は牧野富太郎という有名な植物学者が書いたもので先生が大切にしていた本でした。飯田からバスに乗って帰ってきたそのバスの中へ植物図鑑を置いてきてしまったのです。家に帰って気がつき、あわててバス会社へ電話して探してもらったのですが、ついに見つからずじまいでした。
 子どもだった私は、何日も暗い気持ちですごして農繁休業が開けて学校が始まると、先生に謝りに行きました。ものすごく怒られても仕方ないと思っていたのですが、先生は意外にも怒ることなくこう言ってくれたのでした。
「英章が大きくなって、あの本以上の立派な本を作ってくれればそれでいい」と。その時の気持ちは今でも忘れずにいます。
 それから中学へ入るまで、私は将来植物学を勉強してやがて牧野富太郎のような植物学者になり、先生との約束を果たそうと本気に考えていました。


 私たちは決していい子どもたちではありませんでした。ゴタのこともたくさんやったし、クラスはまとまりはなかったし、先生に秘密でいろんなことをしたりして、先生を困らせることも多かったと思います。
 でも私たちは先生から多くのことを教えていただいたのです。机の上に物を置くときは端から20cm以上中へ置けと言ったような今でも日常役に立つていることもあります。


 私は今だに先生との約束を果たしていません。約束は一生かかっても果たせないと思います。でも先生はあのできごとを忘れずに今でも覚えているということで、きっと許してくださるだろうと思います。


 目を閉じれば、丸いめがねをかけ、目を細めてにこにこ笑っている先生の面影が浮かんでまいります。「英章、いい子になるか」と真剣に問いかける先生の言葉が聞こえてきます。
 私たちは本当によい先生に教えていただいたことに、心から感謝します。わずか2年間ご指導いただいただけですが、この2年間は一生の宝となっています。今でも当時の同級生と会うと必ずと言っていいほど先生の話が出ます。先生は何時までも私たちの心の中に生き続けています。
 そして今、先生は、永遠に、この世のいろいろなことから解き放たれ、大好きだった草花と共に眠りにつかれていることと信じます。


 先生のご冥福を心からお祈りしお別れの言葉といたします。


2010年11月25日
                           原 英章
 

 宮嶋先生のことは今までもたびたび思い出された。ブログにも何回も書いている。
東京のど真ん中のタケニグサ(2010年6月24日)
種内変異(2009年5月22日)
シランという花、過剰な敬語(2008年5月29日)
クモをいじめて遊んだ(2007年5月16日)
宮嶋先生の教え(2007年3月30日)
山鳩の天気予報(2006年9月25日)
 こう見ると毎年何かしら書いている。他の先生については一度も書いていないのに。植物が専門の先生だった。戦争でトラック島に渡っていた。そこからオクラの種を持ち帰り、毎年種を採って生徒たちにも分けてくれた。死んだ猫の解剖も印象に残った。他の先生たちのようにソロバンを教えなかったので父兄からボイコットの話が出ていたと最近知った。
 なぜかは分からないが、懐かしい忘れられない先生だった。小学校5、6年生という子供に対しても強い印象を与えることができるのだ。今でも自分の中の深いところで大きな影響を受けていると感じている。