「梅棹忠夫 語る」を読む

 「梅棹忠夫 語る」(日経プレミアシリーズ)を読む。梅棹忠夫は2010年7月に亡くなったが、生前、弟子であった小山修三がインタビューしたものを本書にまとめた。

(梅棹が)2004年からつづけて大病を患い、再起があやぶまれるほどだった。
 さいわいの小康をえて、2008年に「米寿を祝う会」を開催し、梅棹さんをまな板に載せてシンポジウムをやろうという計画がもちあがった。ただし、体調に不安があるので、まえもって私が聞き取りをして、梅棹さんが来られない場合は、それを読み上げるという次善の策を考えた。そのため2008年2月から、週1回の聞き書きを始め、回数は15回に及んだ。

 弟子が大先生の話を聞くという体裁なので、ヨイショっぽくなるのは仕方ないとして、さして重要なことが語られるのでもない。気になったのは編集デザインだった。

 この本文の扱いだが、途中ところどころ文字が大きくなっている。「日本の学者、文科系の人は理学の教養によわい、とくに数学が苦手。」なんてくだりをなぜ大きな文字にしなければならないのか。英米の本で、強調する部分をイタリックにしているのが見られる。それを日本語に翻訳したときゴジックにした。だがイタリックと違ってゴジックは目立ちすぎる。浮いてしまうのだ。女性週刊誌がこれを採用しているが、品のないデザインの見本とされている。本書「梅棹忠夫 語る」ではゴジックを避けて、大きな文字を使うという新方針を採用したと見える。だがこれもゴジック同様に品のないデザインだと思う。いや、これは梅棹忠夫にも小林修三にも責任はなくて、ひとえに編集者の問題だ。そう思って版元を確認すれば、日本経済新聞出版だ。なるほど、新聞雑誌を主とする出版社だからこういう編集をしても不思議はないのかもしれない。だいたい株の取引など「金もうけ」を主要な関心にするなんて恥ずかしいことではなかったか。昔は株をやるなんて特殊な人たちだったのに。
 別れたカミさんの祖父は株屋だったとかで、家では「ありのみ」「当たる」「当たりっぱ」などと言っていたそうだ。それぞれ「梨」「剃る」「スリッパ」のことらしい。豪邸に住んだり一間のアパートに暮らしたり山あり谷ありの人生だったという。


梅棹忠夫語る 日経プレミアシリーズ

梅棹忠夫語る 日経プレミアシリーズ