渡部泰明「和歌とは何か」(岩波新書)には、「古今伝授」についての1章が設けられている。古今伝授とは、「簡単にいってしまえば、それは師匠から弟子へと1対1で行われる、『古今集』ほか重要古典の教育プログラムである」。それに関連して、著者が中学生の時に経験した教育法が語られている。
私が中学1年生の時、理科の先生が、音は空気を伝わる波である、と授業で説明した後、どんなことでもいいから、恥ずかしがらず質問してごらん、と皆に促した。その時、どうして電波は伝わるのか、と尋ねた生徒がいた。音波よりも格段に高度な質問である。へたに説明すれば、音波についての理解すら混乱しかねない。先生は一瞬言葉に詰まり、次にこう言ったのである。「この質問への答えは君たちには難しすぎる。だから今から嘘を教える。これは嘘だから、将来しっかり勉強して、本当のことを知ってほしい」と言うや、やにわに棒を取り出してそれをぶるぶると震わせ、「ほら、こうやってまずアンテナが細かく揺れるわけだ。そこで電波が発生して……」とやり始めたのだ。さすがに中学生でも嘘だとしか思えない説明だったが、嫌な感じは少しもしなかった。先生は生徒の質問から逃げなかったし、道化役を演じてでも生徒たちのなかに飛び込み、その知的好奇心をつなぎとめようとした。それが中学生なりに感じ取れたからだ。むしろ感動したといってもよい。「今から嘘を教える」。こういう言葉を覚悟をもって吐ける教師でありたいものだ、と思う。つまり先生は、説明内容としては私たちに嘘を教えたのだが、教える行為としては、忘れ難い「真理」を伝えたということになる。この体験と古今伝授とはかなり次元の異なる事柄ではあるが、少なくとも、行為という側面からこの教育方法を見直してみる価値はあるように思うのだ。
私がこの教師の立場にいたら、どのように答えられただろうか。千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず、という諺を思い出した。天才児は多いが名教師は少ないという諺を。
- 作者: 渡部泰明
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/07/22
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