針生一郎先生が亡くなった

 美術評論家針生一郎先生が亡くなった。asahi.comの記事より

 反権力の立場から前衛芸術批評を手がけた美術評論家で、「原爆の図 丸木美術館」(埼玉県)の館長も務めた針生一郎(はりう・いちろう)さんが26日、急性心不全で死去した。84歳だった。通夜は31日午後6時、葬儀は6月1日午前10時30分から川崎市多摩区南生田8の1の1の春秋苑で。喪主は長男徹さん。

 仙台市生まれ。東北大文学部卒、東大大学院で美学を学ぶ。美術家の岡本太郎や文学者の花田清輝安部公房らによる前衛芸術の研究会「夜の会」に参加。戦後の芸術運動の最前線で活躍した。美術のほか文学の評論も手がけた。

 軍国少年だったことへの反省から、民衆の側に立った歴史と平和を探る思想を模索。戦後、日本共産党に入党したが1961年に除名された。70年の大阪万博では、万博に反対する運動に参加。第三世界の芸術家との連帯を目指す活動でも知られた。

 68年にイタリアの国際美術展ベネチア・ビエンナーレの日本館コミッショナー、99〜08年、美術評論家連盟会長。和光大学名誉教授。著書に「針生一郎評論」全6巻、「戦後美術盛衰史」など多数。

 かつて小山田二郎が亡くなったとき、針生先生が朝日新聞に小山田について書かれた(1992年3月17日)。

 画家小山田二郎は昨年7月末、76歳で病死した。だが、死亡通知もなく新聞にも報道されなかったので、友人知人たちも最近までそのことを知らなかった。
(中略)
 わたしは小山田二郎の仕事が、美術史に残ると信じている。(中略)いずれどこかの美術館で小山田の全貌を示す展覧会が企画されることを切望する。

 針生先生の影響力は大きく、のちに小田急美術館で小山田二郎展が実現することになる。
 その朝日新聞の記事を読んで、私は針生先生に手紙を書いた。私の師も亡くなって10年以上経つが誰も評価してくれない。優れた画家なのに、と。
 ほどなく作品を持ってきなさいとの返事をいただき、山本弘の油彩10点ほどを持って川崎市生田の針生先生の自宅を訪ねた。1992年4月4日だった。もうあれから18年も経ったのか。
 しばらくして、針生先生が東邦画廊の中岡夫妻と一緒に、わざわざ長野県飯田市にある山本弘の未亡人宅を訪ねてくださった。最初に、飯田市美術博物館へ行き、収蔵庫に収められている50点の作品を特別に見せてもらった。ついで未亡人が大切に保管している300点の遺作をすべて、1点1点ていねいに見られた。その際これは松本俊介よりいい、香月泰男よりいいと声をあげられた。
 翌日東京へ戻る特急あずさの車内でだったか、私に現在なぜ抽象表現主義が行われているのか、その社会的背景を考えてみなさいと言われた。それから何年も考えたが結局分からなかった。しかし、なぜそう言われたかは15年くらい経ってようやく分かった気がした。そのことは以前ここに書いた。
抽象表現主義とは何だったのか(2007年1月18日)
 針生先生の講演会があると都合をつけて出かけていった。たいてい面白かったが、3年前に多摩美術大学で行われたゼロ次元に関するシンポジウムでは、壇上で眼をつむっていて、横に座っている中沢新一から、針生さん大丈夫? 寝ちゃあだめだよなんて言われていた。昨年有楽町駅前で偶然見かけた折りもおぼつかない足取りで歩いていた。どちらへ行かれるのですかと声をかけると、銀座2丁目にある画廊の名前をあげられた。それがお会いした最後になった。
 東邦画廊で最初に山本弘展が開かれたとき、読売新聞に「無頼の画家 山本弘の現代性」というすばらしい紹介文を書いていただいた。

「無頼の画家 山本弘の現代性」(2006年10月9日)

 5月30日放映のNHK日曜美術館「長谷川りん二郎」にちょっとだけ出演されていた。自宅で収録したものだろう。声を聞いてとても懐かしかった。今夜の通夜に仕事のあとで駆けつけよう。

 写真は、持参した針生一郎「わが愛憎の画家たち」(平凡社選書)の見返しに記念に書いていただいたもの。わが愛蔵書。