辻井喬・上野千鶴子「ポスト消費社会のゆくえ」(文春新書)が面白い。セゾングループの興廃を、セゾングループの元オーナーである辻井喬(=堤清二)に社会学者の上野千鶴子がインタビューするという形式の対談集。西武デパートの前史から、1982年の年間売り上げトップを経てバブル崩壊後に解体していくセゾングループの歴史が語られる。上野が辛辣な質問を繰り返し、辻井が誠実に答えていく。それも面白かったが、随所に語られるエピソードが特に興味深かった。
上野千鶴子 (前略)西武(デパート)を他社と比較したとき感じたのは、老舗のマーチャンダイジング力と接客技術の差です。イメージとリアリティとのあいだの落差が相当あるということです。具体的にいうと、イメージにマーチャンダイズと接客が追いついていませんでした。西武は当時の高いイメージにもかかわらず、じつは顧客のニーズに応じる品揃えがないとか、欠品があっても平気だとか、いろんな悪い噂が耳に入りまして、イメージと実態に落差があることがよくわかりました。(中略)
私の調査では、老いたりと言えども老舗百貨店の実力は大したものだと感じました。特に高島屋と松屋のマーチャンダイジングと接客には感心しました。
別のところではこう言っている。
辻井喬 (前略)伊勢丹の人事についても、私は基本的なところで賛成なんですよ。伊勢丹は社員の給料が一番高い。だけども、高給であることによってプライドと貢献度が高くなれば、実質的には経営合理性から言って、少しも割高ではないわけですからね。
上野 たしかに、伊勢丹は社員のモラルが高いですしね。
辻井 いろんな意味で伊勢丹の社員の意識は高い。だからずっと売上げもいいんだと思いますよ。
上野と辻井は、高島屋と松屋、伊勢丹を高く評価している。私はほとんどデパートで買い物をしてないが、思えばこの3店が好きだった。ほとんど使わないながらそのように思い込んでいる理由は3社の広告ではないか。この3店の広告は垢抜けていたと思う。
別の話題で、辻井が始めた西武美術館(のちのセゾン美術館)の開館記念展は、抽象芸術、立体造形、コンセプチュアル・アート、スーパー・リアリズムなどの作家たちの作品を概観するものだったと紹介される。
上野 ピエール・ブルデュー(1930-2002年)の『ディスタンクシオン−社会的判断力批判』(藤原書店・1990年)はお読みになりましたか? 彼はそのなかで、「前衛芸術はどのような人によって選好されるか」という問いを立てています。前衛芸術は評価の定まらないものです。評価が定まったものではなくて、定まらないものに対して価値を見出すのは成り上がりの新興ブルジョワジーであると、明確に書いています。それはなぜかというと、「前衛芸術とは旧ブルジョワジーに対する自己差別化の記号だからだ」と。西武文化活動を見ると、あまりにブルデュー理論が当てはまるので感心します。
(中略)
上野 まだ価値の定まらない人材や作品に対して、先行的に才能を見出して投資していくやり方は、ベンチャービジネスそのものですね。
(中略)
上野 ベンチャービジネスのなかには当たりもハズレもあって、現代美術ははずれるとただのガラクタですね。
辻井 そうです。その判断は難しい。途中までよくても、「あっ、この作家、ダメになった」と感じることはありましたね。途中で創作方向がわからなくなって、くだらんものを創り出したりすることはよくあります。現代美術の作家の場合、半分ぐらいそうです。
上野 具体的に名前を挙げてもらってもいいですか?
辻井 強いて挙げれば、フランク・ステラとかオルデンバーグ。途中までとてもよかった。しかし、どこかでわからなくなってしまった。だったら、そこで創作活動をやめてくれればいいんですが、なおも続ける。
ステラは、本当に後半ひどくなった。デュビュッフェもだ。生意気にも私が大物画商のTさんに、東京都現代美術館の常設でサム・フランシスを見たけどスカスカな画面だったと言うと、いやサムの初期はすばらしかったよと言われた。やはり後半ダメになった口だろうか。
- 作者: 辻井喬,上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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