作曲家中田喜直の評伝「夏がくれば思い出す」

  朝日新聞3月6日「be on saturday」の「歌の旅人」は中田喜直特集だった。中田は「夏の思い出」「ちいさい秋みつけた」「雪の降る街を」など誰でも知っている歌曲を作った作曲家。たくさんの歌曲や童謡のほかに何百もの小学校中学校高校などの校歌、合唱曲、ピアノ曲を作曲した。

 フィンランドの映画監督アキ・カウリスマキに「ラヴィ・ド・ボエーム(放浪者の人生、の意)」という作品がある。プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」と同じ、芸術家の卵たちの友情と悲恋を描く青春物語だ。1992年の作で、ベルリン国際映画祭国際批評家賞を受賞した。
 不治の病に陥った恋人ミミのため、花を摘みに行った画家は、部屋に戻って恋人が事切れているのを知る。花を床に落とし、無言で踏みつけた時、「雪の降る街を……」と唐突に日本語の歌が流れ出す。

 そして、中田喜直について、

 牛山剛「夏がくれば思い出すーー評伝 中田喜直」(新潮社)は、中田と親交のあった音楽プロデューサーによる秘話満載の本格的な人物伝。

 それでは読んでみなければなるまい。
 中田は1923年に作曲家中田章の三男として生まれ、東京音楽学校を出て陸軍将校となり、群馬県の新田飛行場で待機していて終戦となった。戦後駐留するアメリカ軍でピアノを弾いたり、ラジオ局で作曲を委嘱されて活躍する。サトウハチローと組んで100曲以上の童謡を作り、のちに「ろばの会」を結成して新しいこどもの歌を作る運動などを推進する。フェリス女学院に招かれ音楽を教え、歌曲や合唱曲、ピアノ曲の作品演奏会も開く。
 日本童謡協会の会長に就任し、さまざまな賞を受賞し、合唱曲は全国の合唱コンクールの課題曲になって歌われる。しかし何か不思議なのだ。最初の結婚は2年間ほどで破局する。その後フェリス女学院の教え子と再婚する。結婚後すぐに妻は夫が重度のマザコンであることを知るが、彼女が心が広い人だったので結婚生活が続くことになった。しかし、晩年仕事を理由に二人は別居する。
 前衛音楽について、

 中田は、ミュージック・コンクレートなどの「前衛音楽」といわれる現代音楽は、まったく認めていなかった。その考えは亡くなるまで変わらなかった。

 なぜか中田と同時代の日本の作曲家たちとの交流はほとんど語られない。同時代に他に作曲家が存在しなかったみたいだ。牛山剛は繰り返し、中田喜直は天才だと言挙げする。
 2度の結婚生活、マザコン、現代音楽との関係、この評伝には語られない大きな欠落があるのではないか。
 新聞記事でも触れられているが、ショパンの「幻想曲ヘ短調」の冒頭は「雪の降る街を」そっくりなのだ。


夏がくれば思い出す―評伝 中田喜直

夏がくれば思い出す―評伝 中田喜直