東野圭吾「パラドックス13」を読んで

 東野圭吾の「パラドックス13」(毎日新聞社)を読んだ。474ページの単行本を2日間で読み終えたのはその文体が軽いからだ。2日間終日読んでいたわけではなく、最初の日は東京都現代美術館を見たあと銀座の画廊20数軒を回ったし、2日目は勤めに行っていた。その合間に読んだのだ。文体が軽いとは、その文章が意味を伝えて透明になってしまうことだ。比喩的に言えば絵画に対する写真のマチエールに似ている。絵画はつるんとした写真と異なり、イメージを描きながらゴツゴツしたマチエールを持っている。それに意味があるのだ。
 さて、本書はSFに分類されるだろう。ブラックホールの影響でものすごい巨大なエネルギーが地球を襲って、3月13日13時13分13秒から13秒間時間が跳ぶという世界を設定している。その結果、大変な事態が出来する。この極限状況で登場人物たちがどのように行動するかの物語だ。
 まずこのSFの設定がすこぶる大きいにも関わらず半端なのだ。極限状況をつくるための単なるハコにしかすぎない。SFとして2流だ。次に極限状況の人間たちがあまりよく描けていない。凡庸に近いと言ったら言い過ぎかも知れないが。
 結果として、大きな枠組みの小さな物語になっている。小さいのが悪いわけではない。枠組みが大きくて物語が小さいのを非難しているのだ。東野圭吾にも「秘密」のような小さな物語の佳品があったではないか。
 これはエンターテインメントだ。お前は過剰な期待をしているのではないかという批判が聞こえてくる。その批判に対しては、ジョン・ル・カレの「パーフェクト・スパイ」はまぎれもなくエンターテインメントでありながら、優れた文学作品だと答えよう。

パラドックス13

パラドックス13