長谷川龍生の長詩「虎」、「R・バルマ博士に」という献辞がある。全18連333行のシュールリアリスム詩だ。最初に詩人本人による「解説」がついており、大量に蛤を食べたために中毒症状を起こし、3日間夢遊病者になってしまってこの作品を作ったという。ここには18連中、1、2、7、18の4連を抄録する。
解説・1958年9 月23日・ぼくは仕事のあとの昼睡から目が覚めた。身体じゅうから異常な悪臭がたちのぼっていた。前日から飯類のかわりに、鍋いっぱいに煮つめてある蛤ばかりを食べていたせいかもしれない。(中略)代々木病院の御庄博実に診察してもらおうと思った。(中略)そこで、家を出て、一路永福町の駅に向かった、その途中、とつぜん、ぼくはぼくを忘れてしまったのである。もちろん正常な意識を喪失してしまったことはいうまでもない。よくよく記憶の糸をしぼっていってみると、一匹の大きいグレートデン種のような犬が、金あみ越しに猛烈にほえたてており、その後方で、うすぼんやりした邸宅の女のひとが、それを制していたのを覚えているが、あとが判らない。何処をどうしてほっつき歩いたのか、何を喰って、何の行為をし、何処で宿泊したのか全く判らない。
9月26日の午ごろ・東京羽田空港の公安室でぼくは保護されていた。ホノルル経由サンフランシスコ行の旅客機に国電のチケットを見せて乗ろうとしたらしいのである。そこを連行されたあとで空港保安官の語るところによれば、服装が新しいに拘わらず泥でよごれており余りひどいので、朝からずっと注意監視されていた。その上、十分ごとにトイレットへ通い、待合所のソファーで、さかんに筆記したり、エア・フランスの案内受付へいって奇怪な外国語で何か訊問をつづけ、其処の人を大いに困らせていたとのこと。
(中略)家内は、「また、病気ね」とひと言いっただけである。(中略)次頁の詩みたいなものは、その三日間に走りがきされたものである。(中略)こういうものは恥ずかしいもので極秘にしておくべきものであるが、精神力消耗のプロセスが、その緊張度によって割合好く判るので諸兄の参考のために発表するものとする。R・バロマ・ドクタアのことは誰のことかよく判らない。虎は寅の字でかかれてあった。尚、三日間のうちの宿泊したところが図解で解説されている。しかし、これは本物の地図を参照しても発見されなかった。
1
泪もろい
ああ、泪もろい
はらはらと泪がこぼれる。
路をあるいている時
電車にのっている時
ひとり、ベンチにねそべっている時。
おれは、恐怖王
ああ どうして、
単純、残忍、無償殺人者、
夜の路をすれちがっていった人
電車の連結器にのっかっている人
なんでもなく平凡に生きている人
おれは殺す
2
虎、はしる
虎、はしる
生きものが、すべて弱く
ひしめいて死んでいく冬の野づら
電線のとぎれている砂漠のはてから
鉄道のとぎれている荒地のはてまで
吹きながしている風の帯のかなた、
いちばん遠い獲ものをめがけ
蹴立てる爪 蹴立てていく現実
城をこえ、湖をふかくくぐり
禿げ山をかけ上り下り
虎、はしる
虎、はしる
7
虎よ。
恐怖王の使者の中の
たった一匹の勇者。
赤外線の虎よ。
てれくさくねむっていた内気な心臓。
よごれたむしろをかぶっていたニヒルな毛皮。
牙ばかりをみがいていた自虐の名誉。
その虎が、いま、おれを喰いやぶり
獲ものをめがけて、太陽への道を走る。
虎、はしる。
虎、はしる。
すべての色あせた獲ものの世界
虎、はしる。
18
虎、はしる
虎、はしる
遠い獲ものをめがけて
蹴立てる爪、蹴立てる現実。
おれの虎だ。おれは虎だ。
おれは虎だ。おれの虎だ。
低空飛行の虎、急降下着陸の虎。
黒い縞の弾力、虎はしる。
現実は、点と線。
点と線の中の点と線。
虎、はしる。
虎、はしる。
R・バルマ博士よ、さようなら
さようなら。
さようなら。
現代詩文庫18「長谷川龍生詩集」(思潮社)より
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