「日本語が亡びるとき」を読み返して

 必要があって、水村美苗日本語が亡びるとき」(筑摩書房)を7か月振りに読み直した。大江健三郎が本は何度も読み返すことが必要だ。最初の読書は地図のない旅だからと言っているがそのことを実感した。
「第1章ーーアイオワの青い空の下で〈自分たちの言葉〉で書く人々」はアイオワ大学の国際創作プログラムに参加した世界中から集まった作家たちについて簡略に紹介している。ロシア語で会話するモンゴルの詩人とリトアニアの詩人、リトアニアの詩人は盆栽が趣味らしい。チャン・イーモウが監督してカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した映画の原作を書いた中国の作家、韓国からは3人の作家、いつも裸足の若いアルゼンチンの作家、そしてポーランドから、イギリスから、イスラエルから、ドイツから作家たちが集まった。ウクライナ人の女性作家は安物屋に吊された手袋を息子たちに買って帰ろうかどうか悩み続けていた。手袋のぶあつさがウクライナの寒さを語っていた。ポーランドからきた哲学者アガータはクローゼットに掛けられた水村の10年来愛用している古いコートを、「Look! Look!」見て、見て、誰かがこんなローブを忘れていったわ! 女の人が何か美しいものを見て出す羨望の声はすぐにわかる。私が近づくと、アガータは片手で袖に触れて、絹よ、とささやき声を出した。
 この章は優れた短篇小説だ。水村の観察力と描写力、みごとな文章力。だから後半、水村が現代日本の作家たちの日本語を憂いているのがよく納得できる。

 今の日本でも優れた文学は書かれているであろう。これだけの人口を抱えた日本に、才あり、志の高い作家がいないはずはない。だが、漫然と広く流通している文学はべつである。そのほとんどは、かつては日本文学が高みに達したことがあったのを忘れさせるようなものである。昔で言えば、まさに「女子供」のためのものである。かつて日本近代文学の奇跡があったからのみ、かろうじて、〈文学〉という名を冠して流通しているものである。
(中略)
 実際、すでに、〈叡智を求める人〉は、今の日本文学について真剣に語ろうとは思わなくなってきている。今の日本文学について真剣に考察しようと思わなくなってきている。だからこそ、今の日本では、ある種の日本文学が「西洋で評価を受けている」などということの無意味さを指摘する人さえいない。

 水村美苗の小説を読んでみよう。とても楽しみだ。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で