名文とは何か

 先日、「向日葵の咲かない夏」への不満を書いたが、このミステリが今ベストセラーになっていることを知った。そうするとファンもいるのだろう。この中に私が「会話が下手だし、そもそも年齢による会話の使い分けもできていない。」と書いたことに対して、ファンの一人と思われるaasaさんがコメントを付けてくれた。

そもそも年齢による会話の使い分けもできていない。と書いてあるが、読解力が不足しているのでは? できればひどい作品の定義を教えてほしい。実は、質が低い読者とは、この日記を書いた方のことをさしている?

 ひどい作品の定義ではなく、私が考える良い文章の例は、野見山暁治の「四百字のデッサン」(河出文庫)や佐多稲子「夏の栞」(新潮文庫)、それに幸田文の作品を見てほしい。野見山は省略に優れているし、「夏の栞」は微妙で書きづらい事柄を奇跡のように書ききっている。
 良い文章とは分かりやすい文章である必要はない。単に分かりやすい文章と言った場合、文章を通り過ぎて真っ直ぐ意味へ行ってしまうことを恐れる。文章は単純な意味の提示ではないのだ。「向日葵の咲かない〜」の文章が良くないのは、文体が透明で意味を指し示したあと消えてしまうのだ。
 最近読んで感嘆した名文の例を紹介したい。金井美恵子の「目白雑録(ひびのあれこれ)3」(朝日新聞出版)から、18年間飼った猫のトラーの最後のくだり。

 去年の9月に口腔から出血した後、それまでいつもそうしていたようにマンションを出て外のお気に入りの幾つかの場所(元気な頃というより、その時までテリトリー防衛の重要拠点だった場所)を見回っていたのだったけれど、その日は、たまたま私が午前中に自分の部屋の床の掃除をする気になって、タンスの前と書き物机の下に泡の混ったまだ新しい血を見つけたのだったが、きれい好きな人間はいざ知らず、床掃除などということは毎日やるわけではないから、その日トラーの出血を発見出来たのは、いわばたまたまの幸運で、そうでなかったら夜寝る前、お風呂上がりに着がえる下着とパジャマを出すためにタンスの引き出しを開くまで気がつかなかったはずで、むろん、午前中に部屋を出て行ったトラー(その頃でさえ、この体の状態でよく外に出て行くものだ、と医者には驚かれていて、そのせいでトラーは、老嬢二人の飼主に決して甘ったれなどしない体格の立派な頭のいい誇り高いーー去勢はされているけれどーー野性的な猫と動物病院のスタッフには誤解(?)されていもしたのだったが)はそう長いこと外に置かずに連れ戻すのが日課だったから、連れ戻したトラーのそこだけ白い毛が丸いあかりの輪のように生えている口の周囲が血で染っている異変には気がついたかもしれないものの、今年の9月に入ってすぐ、去年の手術以後一切外出もせず、外でいくら猫のケンカの声が聞こえてもまったく無関心で、ただウトウトと眠るばかりだったトラーが、玄関に風を通すために少し開いておいたドアの隙間をすり抜けて階段をヨタヨタと足をもつれさせながらおりて、連れ戻してもドアの前で外に出たいと鋭く訴えるような激しさで鳴き、あまりのことにドアを開いてやると、また、すっかり骨と皮になりはしたけれど、治療のかいがあって床ずれは治って新しい肉の盛り上がって来た後肢がからまってしまうようなたよりない動きではあるけれど信じられない速度で階段を駆け下り、かつて元気だった頃、いつも寝そべっていたマンションの1階の玄関ホールをゆっくり、案外しっかりした足どりで一巡し、さらに自動ドアから外に出て、いつもその上で寝そべっていたコンクリートの塀に向って、か細い声でニャアと鳴きながら歩きはじめるのだったが、その日は時間を置いて三度同じことを繰り返し、お互いに言いはしなかったが、トラーにも私たちにも、それがトラーの1年間ですっかり柔らかくなった足のうらが最後に踏む外の地面だということがわかっていた。すっかり軽くなったトラーの体はカサカサした枯木と枯葉のかたまりのようでひどく軽く冷たく、抱きあげてもたよりなく二日後の土曜日医者へ連れて行くと、最初の頃はケガや耳のただれや眼のモノモライで通うことしかなかった十年来トラーを診察してくれていた先生が、体温も下がっているし、行動から見て今夜がヤマだと考えてくださいと言い、姉と私も、すっかりその気だったのだが、家に戻ったトラーは、トイレをすませて自分の決めた場所に横たわり、横たわったままこれが最後の晩餐になるのかもしれないヨーグルトとミルクを混ぜたものを飲み、ホタテの刺身とカニを食べ、それを夕方から夜中まで三回繰り返し、日曜日と月曜日は、トイレに行く時と寝場所を少し変える以外には寝たきりでウトウトと過し、それでも顔のところに食べ物を差し出すと食べ、トラーを入院させるのはしのびないと先生も言い、家が近いこともあって8月に入ってから日に二度トラーに薬を飲ませに来てくれていた看護士の声を耳にすると、薬を飲ませられるのが嫌いなものだから頭をもたげて逃げるような反応を示し、月曜から4日の火曜日に日付が変って、私の枕元でバスタオルの上で顔を壁側に横向きに横たわって静かに眠っていたトラー(少し前まで、もがくというのではなく、走っている夢でも見ているかのように眼を閉じたまま四つの肢を軽くカサカサと断続的に動かしていたのだったが)の咳き込むような声で、ウトウトしていた眼がさめ、トラーは横たわったまま血を少しずつ吐きつづけ、口もとに持っていったホタテ貝殻形の小型のグラタン皿(18年間使っていた)から水を少し飲み、薄く開いていた眼を閉じそれからまた血を吐いて、そして口を軽く開け、眼を開いたまま、ふっと息を止めたのだった。ひどく長く感じられたけれど、血を吐いて息をひきとるまで30分ほどだったろうか。口内炎と潰瘍のせいでしていた特有の強い口臭が、奇妙なことに最後の息と一緒に消え体はまだあたたかいのに、トラーと狭い世界をつないでいた生気が、あきらかに失われたのだった。
(中略)
 音や風の気配が、トラーそっくりの気配を私たちの狭い住居の世界に漂わせるし、私たちの無意識もトラーの気配を求めているのに、あの臭いが消えた瞬間、トラーの生命は消えてしまったのだ。

 清水邦夫の芝居で木冬社の松本典子が長い長い台詞を時に声を裏返らせながら語り続けるシーンや、イタリアオペラのノルマやランメルムーアのルチアの「狂乱の場」のアリアを思い出してしまう。

目白雑録 3

目白雑録 3