酒井忠康は「早世の天才画家ーー近代洋画の12人」(中公新書)のなかで、靉光(あいみつ)を取り上げて次のように書いている。
……靉光の作品について、その出会いのもっとも個人的な必然を語ろうとすると、わたしは1点の小さな《静物》をとりださざるをえない。
それは新人画会を結成した1943年の作品で、題名は《魚(ひもの)》となっている。8号ほどの油絵である。画面中央に1匹の魚のひものが描かれているだけの、そっけない作品である。ことさら特徴的な画面ではないから、普通の鑑賞では心にとめるはずもない。
作品との稀薄な関連しかもちえないこの魚のひものの油絵が、わたしに忘れられない対面の場となったのは、ほかでもなく、1967年秋に開催された「靉光・関根正二展」(神奈川県立近代美術館)でのことであった。
ここには、靉光と同時代の画家で、その仕事において共通の場をもち、たがいに切磋琢磨したひとりの画友が存在する。麻生三郎氏である。どういう理由で麻生氏と一緒に展覧会をみることになったのかは不明だが、わたしは氏が《魚(ひもの)》の前で、のぞきこむようにみてから手で、ある部分を指して次のごとく説明されるのをきいた。
それは画家の眼のよさということであった。「もの」をみる眼のたしかさに舌を巻くーーこう語ってから麻生氏は、魚(ひもの)がテーブルか何か台のようなものの上にのせられている手前の部分と背景との境界線を指摘した。その境界線は画面中央を水平に一直線に走るべきところなのであるが、魚のもつ形によって左右に断層を生じているというのである。したがって、描かれた魚は左右に少しズレていて、静止の形というよりもっと複雑な動きのなかに存在してみえるというのである。
これを読んで、私は吉田秀和の秀逸なセザンヌ論を思い出した。そのような作品がセザンヌによって描かれていることを吉田秀和が書いていた。「セザンヌ物語」(中央公論社)と「セザンヌは何を描いたか」(白水社)だ。ここでは後者から引用する。
つぎの絵では、この左右の喰い違いがはるかに複雑になる。
《台所のテーブルの静物画》(1888〜90年)
これは不可解というか不思議というか、わかりにくい絵である。パリの印象派美術館に行くたび、この絵の前で、どのくらい時間をかけたかわからない。
どこから書いていってもいいが、まずテーブルをとると、これは右と左でねじれている。果物の入った籠は真横からみた視線で描かれているが、その左の壺は、斜め上から見たもの。二つのあいだで壺が傾いているのは、テーブルクロスの上にあるからかもしれないが、少なくとも右の小さい壺の把手のつけ方がおかしい。籠の大きさに対しテーブルの上のもののほうはかなり小さいのに、テーブルのいちばん右にある果物はやけに大きい。それよりも籠のなかの果物のなかにはもっと大きいのもあるし、逆に左のほうの果物は同じ洋梨にせよ、やけに小さい。また画面右にちょっと足の出ているテーブルはどのくらいの距離でどの位置にあるのか? また左側の棚らしきもの、つぎの青いものから、いちばん奥の椅子までの隔たりはどのくらいなのか? よく見ていると、わからないことだらけである。
当時の人が、セザンヌはパースペクティヴを正確にとって描けない、描かれたものの絵のなかでの位置の配分があいまいだと非難したのも、うなずけないことはない。
もう一つ例をとってみる。
《リンゴとオレンジのある静物》(1895〜1900年)
これに至っては、見ているうちに頭が痛くなる。ルネサンス以来の近代的科学的遠近法に従って、1枚の絵は一つのパースペクティヴによって構成される、あるいは一つの視点から眺めるべきものである、という前提に立ってみると、説明のつかないことが続出する。というのも、ここには俯角、仰角、正面からの水平といったいくつもの視点によって描かれたものが共存するだけでなく、中央やや左の斜面になった皿の上のリンゴたちは、今にも落ちそうなのに、そのまま居すわっている。右のテーブルと左の肘掛けのある緑の椅子だかソファーだかの境には、例によって白い大きな布切れがおかれていて、その視点を覆いかくしてしまっているが、ソファーとテーブルの高さは明らかに違う。それに、この両者はくっついているのか離れているのかわからない。見ていると目まいがして吐きそうになる。
しかし、全体を一つの視点から一元的に解釈するというのではなく、部分部分を独立してみてゆくことによって「1枚の絵をみる」行為が可能になるとしたら、それはむしろ、いくつもの矛盾する空間の在り方を可能にするというのが、この絵の主題なのではないか、と考えられてくる。つまり、これらの絵のなかにあるのは「自然そのままの空間」を写しとったのでなく、この「画面に固有の空間」であり、そういう空間を画面につくり出し、つくり上げること、それが「絵を描く」ということではないかと考えられてくる(これは、中国に発した風景画の伝統になじんだ、私たち日本人には、むしろ、理解しやすい描法といってもいいかもしれない)。

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