春画で優れているのは春信と歌麿

 田中優子の「春画のからくり」(ちくま文庫)が面白い。江戸文化が専攻の田中はこんな過激な発言をしている。

「平等」とか「平和」というのなら、女性ヌードを取り締まって、性交写真を自由化すべきなのだ。

 浮世絵の天才は北斎が最高なのだが、春画に限って言えば春信と歌麿が優れているのだと言う。むしろ北斎春画は低い評価がされている。私の好きな英泉などはケチョンケチョンだ。曰く「着物の文様の組み合わせがおかしい、季節感がめちゃくちゃだ。」「ちらりと覗く娘の局部にしても、丹念に描く意志が全くないようで、ここまでいい加減に描かれると、欲情を抱く者は皆無だと言っていい。」
 歌麿はほとんど絶賛されている。「歌麿こそ、この『隠す・見せる』手法を意識的に駆使し、かつその頂点に達した絵師である。」

 しかし次の図30(下の図版)は(図28や図29=性欲だけのつながりーとは)違う。茶屋の二階でのこの逢瀬は、ゆきずりどころか、長いあいだつき合ってもうよほど気心が知れている関係に見える。しかも甘え合わない粋な関係だ。まずここでは、隠す意志が最初から徹底している。女の白い太股が緋色の腰巻きの間からはみ出しているだけで、性器の結合も見えなければ、二人の顔さえも見えない。よく見ると、女の鬢(びん)の下にちらりと男の油断ならぬ眼が覗く。男の格好は、薄墨色の紗綾形文様の着物の上に、霰小紋の黒い紗の羽織をはおっている。格調の高い「粋」の極みだ。女も黒地の井桁絣の薄物を着ているが、その下は燃えるような深紅の襦袢であるところが粋である。黒髪をきりりと上げて、すっきりとした鼈甲を挿しているところも涼しげだ。
 さて、見せているのは、女の白い襟足と太股だけかというとさにあらず。扇に書かれた宿屋飯盛の狂歌が、今やっていることを物語ってくれる。「蛤にはし(嘴)をしつかとはさまれて鴫(しぎ)立ちかぬる秋の夕暮れ」と。鴫の嘴(男根)は、蛤(女陰)にしっかり捉えられているのである。果たしてこれは春画か?

 今は春画の出版も自由になっている。田中の引用している浮世絵も簡単に見ることができる。美術館での展示はまだまだのようだが。

春画のからくり (ちくま文庫)

春画のからくり (ちくま文庫)