大江健三郎の加藤周一への弔辞

 昨年89歳で亡くなった加藤周一の「お別れの会」が東京朝日ホールで2月21日に行われ、大江健三郎鶴見俊輔水村美苗吉田秀和が弔辞を読んだという。「世界」5月号に4人の弔辞が掲載されている。その中で大江健三郎の弔辞から、

 私は(中略)尊敬する学者、文学者が亡くなられると、つねにというのではありませんがイジケる心を奮い立たせて、それらの人の全著作を読むということをしてきました。それが、まともな学問をしないで仕事を始めた私には、方向性のある読書を続ける手法になります。むしろどうしても、かれらを読み直したい、ノースロップ・フライの定義のre-readしたい、と思いつめてのことでもあります。
 そのようにして、私は渡辺一夫先生の全著作を十年間読んでいました。この五年ほどは敬愛する友人であったエドワード・W・サイードの本をそうしました。加藤周一さんが亡くなられると、まず『日本文学史序説』から読み直し始めています。その各章の、四つか五つの小見出しを、毎朝ひとつずつ読んできました。続けて読む日もあり、八十ほどの区分を読み終えたところです。それから別の本に移るつもりです。『日本文学史序説』は、文学史というよりむしろ文化史だ、という、確かに敬意のこもったものですが、優れた文学研究者による批判があり、マスメディアの「知の巨人」という、これも妥当な加藤さんへの評価とあいまって、それが定説となっているようでもあります。
 加藤さんの、「万葉集の時代」から四つの転換期をきざんで今日にいたる、広範で一貫した把握は、その通り比類のない日本文化史であろうと思います。しかもこの本は、まことにこまやかに文学史として書かれていると私は受けとめています。自分の思いには、具体的にお示しできる根拠があります。
 この本で加藤さんは、空海から菅原道真、徂徠から近松という仕方で詩人、散文家たちの作品の実例を引きながら、そのいちいちが、日本文学史をつうじてどのように優れたものかをいわれます。たとえば《白石と西鶴は、言葉ではなく、現実へ向かうことによって、無類の散文を書いたのである。》というふうに。ここで重要なのは「無類の散文」という最上級の評価です。
 近代、現代まで跳びましても、露伴、鏡花の、白鳥、石川淳の文学についてそうであり、さらに幸徳秋水河上肇の文体についてそうです。アカデミズムの世界で慎重であり、マスコミに対して賢明である文学史家なら、その使用を注意深くコントロールするはずの最高の賞め言葉が、しかしリアルな内容をこめて豊かに散りばめられているのが、『日本文学史序説』です。それは私ら、この国の文学史の、もっとも不毛な時期にいるのかも知れない後進にも、確かなものの、ある先端になんとかつらなりうるかも知れない、という落ち着きの感情をあたえます。
 それに加えて、この本の全体に流れている女性的なものへの尊敬と、ユーモラスなものへの敏感さは、ますます新しい読者を引きつけ続けるでしょう。(後略)

 加藤周一を読む喜び、その加藤に多くの著作があることの喜び。私も長い時間をかけて読んでいきたい。

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈下〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈下〉 (ちくま学芸文庫)