写真の多義性

 読売新聞2009年3月29日付け読書蘭に、井上寿一が井上祐子「戦時グラフ誌の宣伝戦」(青弓社)の書評を書いている。

(本書の)最大の魅力は、関連書とは一線を画す新しい問題提起である。グラフ雑誌の持つ戦争プロパガンダイデオロギー性の暴露や侵略の告発ならば、別の本で用が足りる。国家の物語からこぼれ落ちたディテールを拾い集めて、真実を再現する。これは斬新な試みである。
 たとえば対外向けグラフ雑誌『アサヒグラフ海外版』は、国策に動員されている国民の姿を伝える意図だったにもかかわらず、劣悪な労働条件の下で汗と埃にまみれている底辺労働者や、戦時下にあっても余暇活動を楽しむ庶民の明るさとしたたかさを活写していた。
 なぜグラフ誌はプロパガンダを超えて、真実を伝えることができたのか。写真は本来「多義性やノイジー(夾雑物のある)ディテール」を持っているからだという。新聞社のグラフ雑誌の記録性が真実を再現する手がかりとなる。

 ここにとても大事なことが語られている。「写真は本来多義性を持っている」という一節だ。写真は「タグ」に回収することができない。ほとんど無限に豊かな意味を持っている。それは写真を見る者の興味によって様々な顔を現すのだ。そのことが「画像検索」を困難にしている。