山口晃のスケッチ論

 山口晃の連載マンガ「すずしろ日記」が今年の4月号で丸5年めととなった。東京大学出版会のPR誌「UP」に毎号1ページで掲載されている。この雑誌はA6版と小さいのに、その1ページに24コマという細かさだ。さて、昨年の10月号(第43回)では軽妙なスケッチ論がマンガで描かれていた。文章だけでも十分面白く伝わるので、マンガ抜きで再現してみよう。

スケッチなぞする訳である。
旅に出たときなどーー


風景だって草花だって何でも好い。


目の前の形象をたゞバカみたいに紙の上にひき写す。


上手く描こうとか、味のあるスケッチにしようとかはーー
これっぱかしも考へない。


現物をなぞる様に、筆を動かし、飽きたらしまいである。


そう云う時シアワセである。


「幸せ」じゃなく「シヤワセ」
「しわよせ」でもない。


形にあやつられ、手が勝手に動くーーというのとも違うかな……


何かこう、自分が空っぽになって、描写する機能だけが働いている。


で、ふと気づくと、「空っぽ」のところへ「シヤワセ」を感じさせる。


「休みだ」とか「描きたい所だけ描けばよい」とか、もろもろがじんわり浸みこんでくる訳だ。


休み中でなくてもスケッチは楽しいところがある。


構想を練ると云った事とちがい。


何やら「型」に身をまかせると云った所か。それが故の自由。


予備校なんぞでは石膏デッサンですら「個性的」に描かせようとするキライがあったが。


あれは10人が10人同じように描けてこそ意味があろう。


「ひょうたん」の中、ひょうたんの底からみると、こちらの方が広い。が、はてしなく広い所へでるには、せまい所を通ってさらにせまいところをくぐりぬけるしかない。


ひょうたんの底の広さしかわからぬ者には上段のせまさは束ばくでしかない。
外には一生でられない。


まんが家さんと絵しりとりをやった時、描く早さと、絵のこなれ方にオドロイた。そのかわり手クセで描いた絵。


美術の学生と落がきをしあった時見なければ描けないという者にオドロイタ。見て描けばキレのある絵を描ける。


河鍋キョーサイが西洋の絵書きとスケッチの話をした時の事、「見て、すぐにはかかず、トナリの部屋で思い出しながらかく。思い出せないところを亦た見る」。


ーーといっていた。私はこれに近い。これをくり返す。筆のこりをとって筆の肉をふやす。


スケッチはバカみたいに描き写すのだが、「バカ」と「いい加減」は違う。バカは誠実である。

 このマンガ、単行本にならないだろうか。