- 作者: 佐高信
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/09/10
- メディア: 文庫
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私は追悼文が好きで今まで何冊も読んできたが、この佐高信の追悼文は下手だ。文章が良くない。佐多稲子をどうしてこんな風にしか書けないのだろうか。あんなにも魅力的な優れた作家のことを。
高校の教員で校長を最後に定年退職したお父さんは終生書を書いていたという。日展に4回入選したようだ。退職後は書一筋で、93歳で亡くなるまで食事時間以外は書を書き続けていたという。才能ということを考えてしまう。努力が実は必ずしも栄光への道なのではないことを私たちは知っている。才能のある人間はさしたる努力をすることなくやすやすと高みへ上ってしまうのだ。
本書中で最も面白かったのは次の件りだ。
親父が書家であることも影響しているのか、私は字によって人を判断するクセがある。字を見なければ最終的にその人についての判断を下せない、と言ってもいい。急いで断っておくが、それは字の巧拙とは別である。
いつか「魯迅展」で毛沢東の字を見て驚いた。雄渾とは程遠いそのインケンさにである。それに比べて周恩来の字は風格があり、味わいがあった。毎号、各作家の字を表紙に載せている新潮社のPR誌「波」を見ると、総じて年輩者の字の方が勢いがあって豊かである。とくにカッコをつけたがる江藤淳の字がちぢこまっていて、あまりカッコよくなかったのは皮肉だった。字から言えば、江藤淳と毛沢東は同質である。
この字についての意見は、以前紹介したドイツの哲学者ベンヤミンが副業で筆跡鑑定をしていたというエピソードを思い出させる。
さて、仕事で北海道へ来て、荒れた天候に飛行機が飛ばず、根室のネットカフェでこれを書いている。地吹雪が荒れ、5分外出しただけで耳が痛くなったほどの寒さだ。