ランペドゥーサ「山猫」を読む

 イタリアの作家ランペドゥーサの「山猫」(岩波文庫)を読む。イタリアの由緒正しい古い古い家柄の貴族の没落の物語だ。ランペドゥーサはシチリアの貴族の家系、この小説は同じくイタリア貴族の映画監督ヴィスコンティの「山猫」の原作だ。40年以上前に佐藤朔がフランス語訳からの日本語訳を行っていて、それを読んだことがあるが、今回はイタリア語からの直訳だ。「文学的修辞とりわけ比喩の多い、たいへんに凝った格調高い名文である」と訳者の小林惺は書いているが、むしろ凝りすぎた修辞過多の文章で、それがしばしば気になるくらいだ。
 ヴィスコンティの映画は原作を忠実に再現していながら、完成度の高い映画となっている。原作以上の出来映えと言いうるだろう。ただ原作の意識の流れの再現は不可能なので、会話に変えたりしているが。
 主人公たるサリーナ公爵ドン・ファブリーツィオは街へ馴染みの娼婦に逢いに行く。そのことを映画では神父に弁解していたが、小説では独白となっている。

 私の身体は、いまもって活力が溢れんばかりだ。どうして一人の女性だけで満足できよう? それも彼女(公爵の妻)ときたら、ベッドの上で、抱かれる前に必ず十字を切り、そのあと絶頂の瞬間には、「イエス様マリア様」としか言わないのだ。(中略)それにしてもいままで私は、あの女の臍を見たことがない。いったいこんなことが許されるのだろうか?

 金言もたくさん散りばめられている。

 愛、確かに愛は必要だろう。しかし愛の炎は、1年もすれば燃えつき、そのあと30年、ただの灰としてだけ残るにすぎない。

 彼は感謝はしていたのであるが、その話に耳を傾けてはいなかった。自分の人生の収支決算書をつくろうとしていたのである。膨大な赤字の灰の山の中から、幸福な瞬間というわずかばかりの金片を拾い出そうと思ったのだ。それはいくつか見つかった。結婚前の2週間、その後の6週間、パオロが生まれたときの半時間もそうだった。

 映画を見れば原作を読まなくてもよいかと思えるが、映画が終わったあとから小説はその21年後の第7章と、さらに27年後のサリーナ家の没落までを描いている第8章が続く。第7章は主人公のドン・ファブリーツィオが亡くなるシーンだ。この章は小説の白眉とも思えるくらいに美しい。
 第6章は舞踏会のシーンだ。映画ではここに1時間を充てている。そんなにも長い時間を少しも飽きさせないヴィスコンティの見事さ。一方、小説はサリーナ公爵の没落と新興成金の下品な村長ドン・カロージェロの急激な勃興を説明してくれる。これは映画では描きづらいものだ。
 貴族の没落はチェホフの「櫻の園」を思い出させる。構図としてもほとんど同じだ。イタリアで最も人気のある現代小説だというのがよく分かった。

山猫 (岩波文庫)

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山猫 イタリア語・完全復元版 [DVD]

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