朝鮮人と日本人の物腰

 小熊英二姜尚中編「在日一世の記憶」(集英社新書)の書評を小倉紀蔵が読売新聞に書いた(2008年12月7日)。そこに朝鮮人と日本人の興味深い文化の違いが指摘されている。

 文化とは悲しいものだ。在日コリアンを描いた映画「血と骨」を見たとき、そう思った。在日一世を演じる日本人女優の身のこなしが、全く朝鮮人に見えないのである。歩く仕草ひとつでも、内股が緊張しすぎている。両脚の間に風が吹き通るようでなくては朝鮮人にならないのだ。
 文化は、どんな断片にも全体が宿っている。だから、声の出し方、座り方、殴られ方、どれをとっても、すべての断片が否応なく全体と調和してしまう。その桎梏(しっこく)が悲しいのだ。日本人はおそらく100回稽古しても、朝鮮人の物腰にはならないであろう。
 浮薄な今風の理論では、文化はごく簡単に軽々と越境し混淆(こんこう)するとされる。しかしそれは嘘だ。文化は容易に越境なぞできぬ。そして越境できない人をうとんずるのではなく、いとおしみ敬意を抱くのが、文化を知る者の振る舞いであろう。

 書評子の小倉紀蔵は韓国思想研究家と紹介されている。だからここまではっきり言いうるのだ。