ジイちゃんの俳句

 娘の母方の祖父(ジイちゃん)は現役時代高校の英語の教師だった。学徒出陣で少し戦争にも行った。オタマジャクシを飯に混ぜると飯が灰色になるという話以外戦争の話はしなかった。戦場では嫌なことしかなかったという。戦争の初期には結構良い思いをした者たちも多かったが、と。そう言えば私の親爺も戦争を懐かしがっている風があった。中国戦線に7年間行っていたからいろいろしてきたのだろう。面白おかしい話を聞かされた。
 教師を定年退職したジイちゃんは予備校で英語を教えていたが、近所から頼まれて大学受験を控えた娘さんの英語もみてやったらしい。その子が大学に入り、さらにオーストラリアに留学した。ホームステイ先の家庭から親の元に手紙が届いて、その日本語訳とまた返事の英訳を頼まれた。後日ホームステイ先の方が、久しぶりに古き良き時代の英語を読みましたと言っていたと聞いた。
 ジイちゃんは戦前に早稲田に通い、習ったのも米語でなく英語だったはずだ。現代のオーストラリア人にとって、ジイちゃんの戦前の英語は古き良き時代のものだったろう。私はそのことを貶めて言っているのでは毛頭ない。最前線のものがいつも良いわけではないのだ。小田実古代ギリシャ語を学んでいたので、現代のギリシャでは通じなかったとか、正当な南部訛りの米語をマスターしてきた男(何て名前だったっけ? 体験記がベストセラーになった)もいたし、関西弁をマスターしたイーデス・ハンソンもいた。
 私はこの人が大好きで尊敬している。とにかく教養人なのだ。骨董や古文書にも詳しいし、日本刀に関する知識も半端ではない。私が調べものがあって、古筆学の権威小松茂美先生に手紙を書いて返事をもらったことを報告したときも、お前は常識を知らない、小松先生はその世界の天皇なんだと呆れられた。
 さて、このジイちゃんから私と娘あてに年賀状が来た。そこに書かれている俳句を無許可でここに紹介してしまおう。

去年今年貫く介護主夫の道(大虚子のマネをして)
水洟を拭きふきペンギン歩き哉
ざらしも佳し枯蘆に水育つ
老残と言(い)っぱ樹上の裂け柘榴
大花野生は寄(き)死は帰(き)帰りなむ
 ※淮南子に「生は寄(き=寄生している、仮に立ち寄っただけ)死は帰(大自然に帰る)」とあったのに刺激されて真似しました。

 ジイちゃん、勝手に公開してごめんなさい。
「去年今年貫く〜」の本歌は高浜虚子の有名な句「去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの」。