長田弘「ねこに未来はない」を読んで

 長田弘は好きな詩人だ。若い頃愛読していたし、今でも諳んじている詩の一節もある。

夭折こそは すべての若い芸術家を駆りたてる
もっとも純粋な夢、ぼくたちの
夢のなかの夢であるもの。
けれども冷めたい夢の汗にぬれて
不意にふるえて ぼくはめざめる。
青年の栄光なんて、今日
酔い痴れることと 自動車事故で
ぶざまに死ぬことにしきゃねえんだ。
あたかも偶然のように死ぬ、
それだけがぼくたちを未来に繋ぎとめている
唯一のパッションなんだ?
おお 誰が信じようとしなくとも
時は短かい、ぼくたちに
時はさらに短いのだ。
(「クリストファーよ、ぼくたちは何処にいるのか」より)

 長田弘のエッセイ「ねこに未来はない」(角川文庫)を読んだ。昔友人が晶文社版の単行本を持っていて、いつか読みたいと思っていた。猫に関するエッセイとしては、ほぼ古典に属すると考えていた。
 読んでいて、がっかりした。

 時間のまあるい内庭を、秒針が穴から穴へ走り去るねずみたちのような駆け足で一廻りし、短針があわてたあひるたちのようにせかせかと一廻りし、そのあとを長針が鎖につながれた所在なげなおおきなコリーのようにゆっくりと一廻りして、つまり一分が一か月のように、あるいは一か月が一分のように、まるでおもいがけない早さで過ぎてゆく、ぼくたちの日めくりのくらしのなかで、こうして、まったくある日突然に、チイはもうすっかり年頃の器量ねこになっていたのでした。

 これは散文の文体ではなくて詩の文体だ。しかし、それががっかりした理由ではなかった。長田弘は何匹もの猫たちを亡くしてしまう。動物を飼ってはいけないアパートで飼った最初の猫は、初めて外に出した日にいなくなって帰って来なかった。ついで飼った器量良しのチイとその息子のクマは同時に2匹とも失踪してしまう。3匹めの「ジジは、ぼくたちが飼ったねこたちのなかでいちばん綺麗な、毛脚のとても長い、まるでそれが乳白色の芝草のようにいっせいに伸びきった仔ねこでした」というジジは、近所の野良猫に噛み殺されてしまう。「こうして、ねこたちは次から次へ、ぼくたちのまえからなにげなく、さりげなく、あっけなく、いつも唐突に消えてゆきました。」
 それなのに長田弘の悲しみは一向に伝わってこない。「なにげなく、さりげなく、あっけなく、消えていったねこたち」と言う詩人の軽いレトリック! 作家の保坂和志は猫の死を友人の死よりも悲しいと言っているのに。長田弘の猫好きの奥さんの悲しみも伝わってこない。奥さんはおそらく深く深く悲しんでいるだろうに。
 私が不満なのは、長田弘のエッセイに彼の感情がほとんど表現できていないことなのだ。あんなにも優れた詩を書いていた詩人なのに。まるで、破局を迎えた恋人たちを何の葛藤もなく描いた凡庸な作家、片岡義男のように。こんなにも凡庸なエッセイを書いたあの優れた詩人のことが。