源氏物語の読み方は? 丸谷才一と吉本隆明

 朝日新聞10月26日の書評欄が「源氏物語」特集で、丸谷才一が「源氏物語」の読み方を書いている。

 モーツァルト交響曲をCDで聴くのとナマで聴くのとは大違いである。セザンヌの油絵を画集で見るのと美術館で本物を見るのとでは、これが同じ絵かと思うほど差がある。もっと違うのが「源氏物語」の現代語訳と原文。紫式部が手ずから書いた文章は、現代最高の作家たちの訳文とくらべて、みずみずしくて匂やかでしなやかで強い。
 嬉しいことに、この「源氏」の原文を読もうとすれば、われわれ現代日本人は何とか読むことができる。千年前の日本語は基本のところで今の日本語と同じだからだ。(中略)
 ただし全巻を読むのは大変だ。工夫をしよう。とりあえず第一帖「桐壺」から第三十三帖「藤裏葉」までは小学館「新編日本古典文学全集」「源氏物語」全六巻(阿部秋生他校注・訳)の各帖のはじめについている梗概ですませ、それにつづく「若菜(上下)」と「柏木」を、つまり第三十四帖から第三十六帖までを、同じページの上にある訳文を参照しながら原文で読むのがよい。この三帖は「源氏」の白眉である。折口信夫も「源氏」で一番いいのは「若菜」と「柏木」だと言っている。

 それについて、吉本隆明は「日本語のゆくえ」(光文社)で、口語訳で読めばいいと言っている。

 ぼくの考えでは、作品がこのレベルまでくれば原文で読もうが口語訳で読もうがまったく変わらない。どっちで読もうが受ける感銘は同じだと思います。だから「源氏物語」のような作品は、研究者でもないかぎり、翻訳で読めばいいんだよということになります。原文で読むのは大変だし、原文で読もうとすると一生の仕事になってしまうからです。「源氏物語」にはそれくらい現代性があります。(中略)
 では、だれの現代語訳がいいかといえば、ぼくは与謝野晶子の訳がいちばんいいと思っています。(中略)
 ぼくは以前「源氏物語」を論じたことがあります(「源氏物語論」)が、そのときも全体は与謝野晶子の現代語訳で読み通して、文中に引用するところだけ、原文を引いて自分なりの訳をつけました。引用以外の箇所は与謝野さんの口語訳で済ましてしまったわけです。

 さて、丸谷、吉本どちらに組みするべきだろうか。