思い出す人々:K化学工業の課長山内さん

 若い頃営業の仕事をしていた。クライアントの担当者がK化学工業の山内さんという課長だった。その会社は二つの会社が合併してできた会社で、建前は対等合併だったが、実際は吸収合併だった。山内さんは吸収された方の名古屋支店長だった。合併した会社の技術普及室の課長になったが、合併直後のボーナスを巡って、前の会社の組合員が妥結するまでボーナスの受取を拒否したのに同調し、部下が受けとるまで自分も受けとらないと宣言してワンマン社長の逆鱗に触れた。俺の目の黒いうちは絶対に昇進させないと断言して、それはワンマン社長が亡くなっても引き継がれ、課長のままで定年退職した。戦後すぐの薬学部を卒業した優秀で骨のある人だったのに。
 ぼくはあんたと××さん(私の上司)が一番好きだよと可愛がってもらった。山内さんの担当する仕事はすべて任せてくれた。ただ問題がなかったわけではない。K化学工業の応接室はすべて個室だった。山内さんは必ず私と並んで座り、左手を伸ばして私の太股に触りたがった。それで椅子に座るとすぐ間の肘掛けにカバンを置いて防衛した。さすがに太股は触られなかったが、嫌な顔もされなかった。
 いろいろ指導された。その会社のPR誌に寄稿してくれた研究者の原稿を封筒に入れ、表に研究者の名前を敬称抜きで書いていたら、万が一手違いでその封筒のまま研究者の手許に返されることがないとは言えない。呼び捨てにされていると知ったら気を悪くするだろう。必ず○○先生と書きなさいと言われた。
 ある日待たされていた時、生松敬三と木田元の対談集「理性の運命」(中公新書)を読んでいると、お、ぼくの影響で真面目な本を読んでいるねと言われた。影響ではないとは言わなかった。この本を取り出してみたら、1976年5月4日に阿佐ヶ谷で買ったとメモしてある。もう32年も経ったのだ。
 別の時「昭和の写真記録」というような本を持ってきて見せてくれた。戦後すぐのストリップが公開されたときの写真を示し、観客の一人を指して、これがぼくだよ、家内には見せられないよと笑った。
 山内さんを慕っている部下が、あんなことがなければ重役になる人なのにと悔しがった。転職しなかったのは時代だったのだろうか。
 閑話休題。それから20年ほど経って、別の会社の部長に気に入られた。彼が発注する広告関係の仕事はすべて任せられた。部長が東南アジアに出張した時、怪しげなキャバレーに案内された。そのキャバレーは定期的にすべての明かりを消して、客が女の子に何をしてもいいシステムになっていた。部長はその10分間をライターを点火して明るくし、ホステスから現地の言葉を教わっていたよと話してくれた。またある時、取引先の人から新宿歌舞伎町のファッションヘルスに誘われた。断ったのに強引に連れてゆかれ、お金も払ってくれて個室に入れられた。女の子に何もしなくていいと言っておしゃべりして時間を潰した。
 部長から太股を触られることはなかったが、どうもある傾向の人たちから好かれるような気がする。